『ハンズ・アップ!』(ロマン・グーピル/2010)


東京国際映画祭で最初に出会った傑作について取り急ぎ紹介したい。当てにならない確信を持って言うならば、おそらく今回の東京国際映画祭で本作に勝る「発見」はないだろう。とはいえ「発見」という言葉を使うのは、既に20年近くのキャリアを持つロマン・グーピルにとってはまったく失礼な話だ。責められるべきは私たちの無知で、祝福されるべきは私たちの出会いだ。本作への衝撃を皮切りにロマン・グーピルという映画作家の全容へ向けて私たちは早急に走らなければならない。遅すぎたがこれはとても幸福なことでもあるのだ。さて、ロマン・グーピルは『30歳の死』(1982)という68年革命を描いた傑作(未見)によって知られている。この作品はジャック・ドワイヨン『西暦01年』、マラン・カルミッツ『Coup Pour Coup』と共に”68年映画”を集めたDVD−BOX(フランス盤)に収録されている。私が初めてロマン・グーピルの名を知ったのも、ゴダールの『万事快調』とカルミッツの関係を調べていたときだった。好奇心からロマン・グーピルの旧作を集めたDVD−BOXを購入したものの、1年近く未開封のまま放置してしまっていた。『ハンズ・アップ!』に打ち震えている今、猛省している。


マラン・カルミッツ『Coup Pour Coup』(1972)についての過去記事↓
http://d.hatena.ne.jp/maplecat-eve/20100215



ジャック・ドワイヨンのことを思い出していたのは、この映画の主役が透明感溢れる子供たちだから、という理由だけではない。ここには闘争の意思が強固に受け継がれているからだ。『ハンズ・アップ!』は子供たちによる切実なレジスタンス運動、闘争の映画だ。2067年という未来から現在を回想するという設定が現在を撃ち抜く。テーマの上で、いや、はじめにテーマありき(はじめに混沌ありき!)、であるが故に本作は画面の繊細さに溢れている。不法移民の子を含む子供たちだけが分かる暗号、超音波、グー・タッチ、女の子同士の投げキッスが繰り出される度に、涙がこぼれそうになる。大人の知らない子供だけの視界=世界のノスタルジーが理不尽な権力構造の痛烈な厳しさの風に曝されながら、敗北と勝利を繰り返す。繭に守られた繊細な空間の中で、しかし確固たる抵抗の意志を持った繭の中で、子供たちの全てのアクションはいつしか言語を用いない共通言語になるだろう。この映画は子供たちを悩ませる音=ノイズで溢れているが、終始トーキーであることを貫くことで、映画自体はサイレントに逆行、肉薄する。再び映像という名の世界共通言語を獲得することに成功しているのだ。それは先端に触れることを意味する。それは抵抗を意味する。子供たちのハンズ・アップ!を捉えたカメラが映画本編のカメラではなく、メディア側のカメラであることは痛烈極まる批判だ。


「この機会だから言っておくわ。あなたちのせいよ!」


メディアのインタビューに答えるヴァレリア・ブルーニ=テデスキ(素晴らしい)の痛烈な一言に熱い感情がこみあげる。この映画のひとつひとつのシーンを思い出すだけで、いまだに熱い気持ちで胸がいっぱいになる。


『ハンズ・アップ!』はあなたの胸を撃ち抜き、抵抗への繊細な勇気で心は震え上がるだろう。大傑作ッ!


明日10/26(火)が最後の上映になります。チケットはまだ余っているようです。この機会を逃すなかれ。仮に今回見れなかった人もロマン・グーピルの名を継続して叫んでいこう。
http://www.tiff-jp.net/ja/lineup/works.php?id=157


追記*上映後のティーチインで監督に合わせて”ハンズアップ”した人の数(圧倒的多数)が、この作品への熱い支持を表していた。


追記2*ゴダールやアッケルマンの助監督をしていたというロマン・グーピルはおそらくデプレシャン並の熱弁家です。素晴らしいティーチインだった。彼の背景をもっと知るためにも、まずは本作の日本公開を熱望します。


追記3*ティーチインでグーピルが話していたことを一部紹介。「2067年」から現在を回想するというこの映画の設定は、たとえば現在の私たちが中世の人間が行った残虐行為を野蛮だと思うのと同じように、60年後に生きる人たちが今現在実際に行われている行為を「昔の人間はなんて野蛮な行為をしていたんだ!」と思うはずだ、とのこと。この意図にもグッときた。