『グッバイ・マイ・ファーストラヴ』(ミア・ハンセン・ラブ/2011)


日仏学院「フランス女性監督特集」にてミア・ハンセン・ラブの新作。ミア・ハンセン・ラブの新作は、肌が肌としてフィルムに刻まれていることが、強烈な印象を残す(スクリーンで体験してよかった)。それはエリック・ロメールの画面が持つ肌の湿度とも、またはジャック・ドワイヨンの画面の持つ親密さともまた違う感触、肌の「モデル」として画面に露わにされる。つまり「肌は肌である」ということがキメ細やかに画面に刻まれている、ということに驚かされたのだ。仮にこのことを画面における主題とするならば、冒頭で全裸で毛布にくるまったローラ・クレトンが、青年に毛布を剥がされそうになるシーン(この時点でこの作品に引き込まれたね)から、河における水浴び(!)、そしてあの美しいラストシーンに至るまで、恋人たちが肌を露出するシーンの、ただ其処に肌が「在る」という強さが、この作品を貫いているように思う。これまでのミアの映画と同じく、女性の一人称単数で撮ることを徹底したかのようなこの作品(南米へ旅立った恋人の描写は彼からの手紙以外、描かれない)は、こう言ってしまうと誤解があるかもしれないが、男性はあくまで女性の風景として描かれている。ただしそれはこれまでの作品の父親への距離と同様、女性作家からの視線の表れと理解するならば、そこを逆手にとっているところが、逆説的にミア・ハンセン・ラブの映画の持つ親密さに繋がっている、というアンビバレントな図式だ。その意味で、青年が窓から入ってきて、「ロミオ!」と迎え入れられるシーンは興味深い。また、映画の後半、少女が自転車に乗るシーンは、実際に少女が見ていない少年の風景、その記憶の反復に思えた。常に旅人である青年(移民)の存在を少女はあくまで肌を介した風景として、彼女の肌(と画面)に映しこんでいるというか。つまり、この肌は鏡であり、さらに記憶を持った肌=鏡なのだろう。この記憶を持った肌=鏡が、さらに大きな記憶を持った自然と、ポエティックに結ばれるとき、彼女の肌はより大きな自然の記憶との共生を刻み始めるはずだ。極めて美しいラストを持った作品。