『マリリン 7日間の恋』(サイモン・カーティス/2011)


ミシェル・ウィリアムズの演じるマリリン・モンロー。この作品のスチールが出回った頃から、こっそり楽しみにしていた『マリリン 7日間の恋』が披露する、被写体や題材に対するあふれる敬意によって紡がれた、クラシカルかつ丁寧な演出に、ちょっと移入しすぎなんじゃないの?と思うくらい泣かされてしまった。忘れもしない、マリリン・モンローという女優の凄まじさを心から思い知ったのは、初めてマリリンをスクリーンに目撃したときだった。『お熱いのがお好き』(ビリー・ワイルダー)の画面に映えるマリリンの圧倒的に無邪気で常に更新される”新しい”存在は、この特別な女優へ向けられた当時の人たちの熱狂を一撃で理解させるに十分だった。そう、マリリン・モンローの魅力はスクリーンで見なければ分からない。もうしわけないけど、こればかりはそう断言する。そして『マリリン 7日間の恋』はスクリーンの中のマリリン・モンローのアクションから物語をはじめる。次にこのスクリーンのマリリン・モンローにどうしようもなく魅了されている一人の青年の顔をアップに収める。この青年の、幸福のあまり、いまにも泣きそうですらある目の輝きこそが、この作品のすべてであり、それはスクリーンから目が離せなかったときの、あの幸福な体験のフラッシュバックであると共に、マリリン・モンローという女優は、どんな深刻な関係であろうと、出会う人すべてを魅了してしまう(この点に関しては昨年出版された、スーザン・ストラスバーグ著・山田宏一訳『マリリン・モンローとともに 姉妹として、ライバルとして、友人として』を参照されたし。名著!)がゆえに、どこまでも幸福でどこまでも不幸な女優=人生だったことの、複雑な反射になっている、ということだ。目を輝かせるのではなく、目が輝かずにはいられない。マリリン・モンローに視線を向けるということは、スクリーンの何もかもに魅惑される状態を意味する。肺に睡蓮の花を咲かせてしまったクロエのようにベッドに横たわるマリリンの弱った姿にさえ、そこには同じ輝きの眼差しが注がれてしまう。マリリン・モンローという人は、実人生においても、スクリーンの中を彷徨い続けた。そういうことなのだろう。



そう、主人公の青年だけでなく、本当に誰も彼もがマリリン・モンローをいまにも泣きだしそうな輝いた瞳で見つめる。マリリン・モンローという被写体を中心に、彼女に注がれる瞳の生き生きしたリアクション、その一つ一つを丁寧に掬い取っていくことが、この作品の最大の設計だ。あのヴィヴィアン・リーでさえもが、スクリーンの、そして実物のマリリン・モンローに、少女のように顔を紅潮させて魅了されてしまう(ところでヴィヴィアン・リーローレンス・オリヴィエと結婚するまでのいきさつは、マリリン・モンローと、とてもよく似ている。ヴィヴィアン・リーもまたかつて本妻に愛された愛人だった)。その意味でローレンス・オリヴィエマリリン・モンローという女優に自らの映画俳優としての負けを認めるシーン、独特の調子で詩を詠む、その微弱な発声の抑揚が胸に突き刺さる。マリリン・モンローはすべてに勝利するが、マリリン・モンローという虚像、自身への極度な過小評価に敗北する。マリリン・モンローマリリン・モンローを演舞することを、ときに楽しみながら、ジェットコースターのようなスピードと動物的な気まぐれによって、自信過剰と自信喪失の間を何度も往復する。そのアクション、彼女のためいき(!)は緩慢な自殺のようでさえあるのだ。だからこそ、マリリン・モンローに注がれるすべての視線と、スクリーンのマリリン・モンローに魅了される視線は、同じ価値として『マリリン 7日間の恋』において、美しく結晶化される。夢のような7日間を過ごしたエディ・レッドメインが、再びスクリーンのマリリン・モンローに視線を注ぐとき、青年の人生に起きたどんな悲劇も、彼女を夢中になって見つめ続ける、ただそれだけの視線の幸福に凌駕されるのだ。ラストの展開と台詞にボロボロと泣かされた。


追記*『マリリン・モンローとともに』(スーザン・ストラスバーグ著/山田宏一訳)は本作への最高の副読本にして名著。マリリンがどんな複雑な関係においても実際に彼女に会ってしまえば、男女関係なく魅了されてしまうということ。マリリンが極度に自分に自信がないこと。彼女が知的な女性であること。が克明に描かれています。何よりスーザン・ストラスバーグのマリリンへの移入ぶりが凄い。常にマリリンに寄り添ったポーラ・ストラスバーグも出てくるしね。

マリリン・モンローとともに 姉妹として、ライバルとして、親友として

マリリン・モンローとともに 姉妹として、ライバルとして、親友として