『フットルース 夢に向かって』(クレイグ・ブリュワー/2011)
あの素晴らしい『ブラック・スネークモーン』のクレイグ・ブリュワーの新作は、大ヒット作のリメイクという高い壁へのパーソナルな敬意を示しつつ、完全にクレイグ・ブリュワーの作品として、役者のアクションの一挙一動に落とし込めることに成功している。クレイグ・ブリュワー版『フットルース』から最初にイメージしたのは、『ブラックマシン・ミュージック』(野田努)に描かれた、抑圧された同性愛者が教会で繰り広げる、あの歓喜のダンスシーンのことだった。オリジナル作品から受け継いだ「ダンス禁止令」というアイディアを、HIPHOPとブルース(舞台がアメリカ南部に微妙にズラされている)の文脈 ―――ベックの"Looser"のギターリフを聞けば分かるように、これは「亡霊」の文脈だ――― から書き換える、という、クレイグ・ブリュワーの作家の烙印を捺しつつ、この作品を何より強固にしているのは、暗黙の内に口ずさむことすら禁秘せざるを得なかった、あの歓喜のリズムとメロディーを炸裂させるためのプロセスを描く、その演出の手捌きだ。
タランティーノの『デス・プルーフ』を想起させる、車内における爆音シーン。この強烈すぎる歓喜のトラウマは、『ブラック・スネークモーン』のクリスティーナ・リッチの抱えていたセックス依存症と同じように、ヒロインを支配するだろう。だからこの作品のダンスは、必然的にまず個人対個人に向かう。たしかにこの作品は大きな権力への若者の抵抗を描いてはいるが、それは決して世代間における致命的な敵対を描いているわけではない。むしろここにはお互いを「許す」ということがダンスの歓喜を介して、じっくりと時間をかけて描かれている。ゆえに神父と青年がお互いの「亡霊」との共生について教会で語り合うシーンは感動的だ。踊れない青年ウィラードの特訓のプロセス(楽しすぎる!)も、すべては一対一の関係をきっかけに始まっている。そう、『フットルース 夢に向かって』の基本となるところは、ごく単純なことなのだ。「あなた」が踊るから「わたし」も踊る。「あなた」のダンスに魅せられた「わたし」が踊る。すべてはそこからしか生まれない。
まさかのDVDスルーになってしまったこの傑作が、爆音映画祭で上映されればリベンジ上映になるね。なにより「ダンス」のみならず、「爆音」を禁じられたことを描いたこの作品だからこそ、その歓喜に立ち会いたい。個人的にはこんな気持ちにさせてくれる映画は『ローラーガールズ・ダイアリー』以来だよ。ゴー!ウィラード!ゴー!爆音映画祭リクエスト投票は3月20日まで( http://www.bakuon-bb.net/2012/request_list.php )。私はリクエストしました。以下予告編。