『Sept jours ailleurs』(マラン・カルミッツ/1969)


こちらは長編処女作。主人公ジャック・イジュランの7日間の愛人役にカルミッツの奥さんカトリーヌ・カルミッツ、ジャックの妻役にミシェールモレッティミシェールモレッティジャック・リヴェットの『狂気の愛』や『アウトワン』、マルクOの『アイドルたち』で強烈な印象を残すボーイッシュな女性、格好いい女性美容師さんみたいなキリッとした存在感が素敵な女優。


バレエの練習風景に現代音楽家ピエール・アンリの『Psyché Rock』(ひと昔前に『現在のためのミサ Messe pour le temps présent』がリイシューされたりクラブDJの間でいろんな使われ方をされた)が流れると男女の躍動的なダンスが始まる。音楽家イジュランが軽快なジャジィーさでピアノを弾きながら「ここでコンガが欲しい」と言うと実際にコンガの音と即興演奏が始まるというファンタスティックな遊戯満載のシーンからこの映画は幕を開ける。ところが音楽とダンスによる具体的な身体性は次第に曖昧な空転をきたし始める。『Nuit noire, Calcutta』のモーリス・ガレルが「言葉」を探す彷徨い人ならば、本作のジャック・イジュランは「音楽」を探す彷徨い人だろう。共通するのは「夜を彷徨い歩く映画」という点だ。



『Nuit noire, Calcutta』が記号による飛躍の作品だったのに対し、こちらはより彷徨のプロセス自体に重きを置いた作品だと言える。イジュランは妻と子供を置いて7日間の旅に出る。妻の運転する車で送られ夜の汽車に乗り込んだが最後、イジュランはモーリス・ガレルの如く亡霊化する。駅で出会う女性が皆揃って黒いサングラスをしているのは視界の歪みの象徴だろうか。車窓に映ったイジュランの顔はボヤけてしまう。イジュランは愛人に出会う。自らが音楽であるかのようにリズミカルに彼女と話す。海に近い路上をカトリーヌの運転する車は走り続ける。そして夜が再び訪れる。


イジュランとカトリーヌの、傍にいるのに手と手が触れることさえできない様が政治家の演説映像と並置される。イジュランは実体ある身体と触れ合うことの不可能性の前でうなだれる。出会った美しい二人の娼婦はイジュランだけを視界に入れていないかのようだ。7日間何処かで夜を彷徨い歩き、イジュランは愛する妻の元に帰る。音楽と愛の探求が実体なき自身や実体のある(と仮定する)愛の対象を闇の中にフェイドアウトするように消し去ってしまう。全てはフレームの中の実体へ。非常に興味深い。


完全に余談だけど若かりしミシェールモレッティ木村カエラ入ってると思う。