『Petit Tailleur』(ルイ・ガレル/2010)
輸入DVDでルイ・ガレル監督作品。「小さな仕立て屋」と名付けられたこの中篇(44分)は、フィリップ・ガレルを父に、ジャン=ピエール・レオを名付け親に持つこの俳優の、直に撮影現場で培ってきたであろう体験が、ヌーヴェルヴァーグの嫡子を証明するかのように画面に漲っている。この美しい白黒フィルムの深い陰影に父フィリップを、ナレーションにフランソワ・トリュフォーの影響を見るのは容易い。この白黒フィルムをキンクスではなくスミスの音楽が彩っているとしても、それは父フィリップとの世代の違いを証明するものではなく、むしろ受け継ぐ者として慎ましく鳴り響くだろう。そしてクリストフ・オノレの『美しい人』で共演したレア・セイドゥという独特の雰囲気を持った女優を主演に迎えた本作は、レア・セイドゥという小悪魔に、劇中の人物だけでなく、映画までもがリードされるかのように、彼女の魅力が極めてフェティッシュに撮られている。
カットアウト的な「寸断」を意識させる編集の数々。ハイキーのコントラストで撮られたレア・セイドゥの、存在が物語を超越してしまう涙。フェードインのアップでベッドに片肘をついて横たわるレア・セイドゥの左目→右目→口元の順に接写で捉えた、魔術のようにエロティックな呼吸。そしてレア・セイドゥの唐突なキスが持つ、ノスタルジーを誘うかのような甘美な生々しさ。情熱的でありつつどこか移り気な、まるで”彷徨う心”のようなレア・セイドゥのすべてのアクションは、男たちを翻弄しつつ、情にはあまりとらわれていないように見える。いや、囚われているからこその瞬発力なのだろう。どこまでも自由な魂のように。『美しい人』のレア・セイドゥが航海に旅立っていった、あの自由のように。常に男性より1歩も2歩も前を歩く彼女の瞬発的なアクション。まるで女優という「影」には決して近づけない、ということへの試練のようだ。客のいない劇場で苦悩のポーズをとる主人公を、半円を描くかのように捉えたショットは、この近づけなさ、そして反復される「遅刻」の主題と結びついている。「小さな仕立て屋(見習い)」の移動は、いつも猛ダッシュ(とてもユーモラスな撮影)でギリギリ間に合う/間に合わない。そんな仕立て屋の主人公がレア・セイドゥの寸法を測るシーンはポエティックな美しさに満ちている。
DVDに同時収録された処女短編『Mes Copains(私の仲間)』と並べると本作はより面白い。キャストが大幅に被っていることから、この短編の続編的な位置にあると読むこともできる。仲間たち。この二篇の繋がりから想起したのが、個人的に現代フランス映画の稀少な才能の一人だと思っている女優ヴァレリア・ブルーニ・テデスキ(ルイ・ガレルと交際している)の監督した傑作『女優』だった。ただ、あるサークルの円環を破る、痛快な一点突破を図った『女優』と違い、『Petit Tailleur』のレア・セイドゥは夜を彷徨い続ける。が、この2作のラストはアクションの悲喜劇性という意味では裏表でありつつ、似た志向だと感じた。放浪する女性。円環を閉じないのは女性であるという点において。ルイ・ガレル、さすがじゃないか。近い将来撮られるであろう初長編が楽しみだ。それにしてもレア・セイドゥ、本当に面白い女優だな。
追記*一番下の画像はどうやったってフィリップ・ガレルの画面を想起させる。フィリップ・ガレル『芸術省』(1989)の中で三輪車に乗って父親の周りをグルグル回っていたルイ・ガレル。この『芸術省』にはレオス・カラックス(新作『Holly Motors』で再始動!)も出ていて、ふとカラックスの撮ったルイ・ガレルも近い将来に見れるといいね、なんて妄想をしてしまった。ちなみに『Mes Copains』には妹のエスター・ガレルが出ています。『Mes Copains』は道路を挿んで友人と奇妙なダンス(パントマイムのような)を踊るシーンがあったり、才気走ったところのある興味深い短編です。
追記2*ラウル・ルイス、ウディ・アレン、ブノワ・ジャコと引っ張りだこ(『ミッション・インポッシブル』の新作にも)の小悪魔レア・セイドゥ出演の新作『美しき棘』(レベッカ・ズロトヴスキ)はフランス映画祭2011で上映。ミア・ハンセン=ラブ、レベッカ・ズロトヴスキ、Katell Quillévéréの30歳前後の女性監督3人を指してフレンチ・フィメール・ニューウェイヴと言われているそうです。
http://www.unifrance.jp/festival/2011/films/2011/05/belle_epine.html
『Petit Tailleur』予告編。