『人生はビギナーズ』(マイク・ミルズ/2011)


マイク・ミルズの最新作『人生はビギナーズ』(来年2月に日本公開)では、異なる時代を生きた父と息子の恋とアメリカの物語がパラレルにフィルムに描かれるのではなく、現行するキラメキと回想のキラメキとが変異的な編集で頻繁に、そして高速度にクロスすることによって同軸の物語として反復される。ここには長編処女作『サムサッカー』における少年の初恋のキラメキはそのままに、初恋のセカンドチャンス、サードチャンスは、前作以上のキラメキの中に素描され、男性・女性、または男性・男性をとらえたフィルムは、そのユーモラスな恋の反復をちょうど三回リズミカルに反復するだろう。アゲイン!アゲイン!アゲイン!そして、キス!キス!キス!この小気味よいリズムの三連符は、次から次へ「発見」をしてしまった、という歓喜のリズムなのだ。ここでユアン・マクレガーメラニー・ロランによる「初恋」が何度目の「初恋」なのかは早速問題ではなくなる。「パーソナリティーとは他の誰かによって創作されるものだ」と書かれたT−シャツをデザインする(本作はマイク・ミルズの自伝的作品とされる)ユアン・マクレガーそのままに、『人生はビギナーズ』において、人は他の誰かの初恋が繰り返し更新されていくことに歓喜を覚えるだろう。避けては通れない決定的な喪失と共に。さらに『人生はビギナーズ』は、大きな意味の愛の記憶が、家族や恋人だけでなく、部屋や家具、花瓶に活けられた花、服装、生活のすべてのスペースに息づいてしまう、という残酷さを、大らかでファニーなやさしさを持って見つめる。モノに感情がある。正確に言えば、ヒトとモノの間にこそ、たゆたうような感情が生まれる。冒頭に出てくる無人の部屋は、そこに誰かがいた、そしてその部屋にはその人を見つめていた感情が今も残っている、ということを、まだ物語は始まったばかりだというのに、早速、示している。モノが語っている、といった方がよいか。「他の誰か」というのは、人間のことだけではない。モノやスペース(との関係)がパーソナリティーを創作する、とも言えるわけだ。そしてユアン・マクレガーは同じく喪失の記憶を抱えた犬と会話を続ける。



登場以降ジェスチュアと筆談だけで会話をするメラニー・ロラン無声映画の音楽伴奏のようなピアノの旋律が添えられる前半20分で私の胸はいっぱいになってしまった。ユアン・マクレガーメラニー・ロランが仮装パーティーで踊るダンスシーン。いつの間にか回想シーンと行き交う編集によって、ユアン・マクレガーのアクションは晩年の父のアクションの反復であることが明かされる。ここには喪失の痛みを伴った多幸感が溢れている。口を開かないメラニー・ロランサイレント映画のアクションを想起させるというよりも(実際、言及もあるが)、この作品が徹底させる「モノの感情」へ向けたメタモルフォーゼととった方がしっくりくる。メラニー・ロランは回想シーンとクロスされる編集においてもユアン・マクレガー守護天使のように存在する。本作では、ローラースケートで街を駆け抜けるなど、ほとんどのシーンにおいて、忘れがたいアクションであるが故に、キラキラした、ふざけ合う恋人たちが描写されるが、ふと、ユアン・マクレガーを赤子のように抱える親密な抱擁ショットには、それとは別の/同種の特別な思いがおそらく込められている。また、ユアン・マクレガーに過去があるように、メラニー・ロランにも過去がある、それをモノの記憶=フィルム(写真やニュース映像)として、スライドショー的に並べ、そこにある「モノの想像力」を促すことにも、この作品は成功している。恋人たちが其処にいる。恋人たちの空間が其処にある/(かつて)あった。空間/モノが思考を始める。カメラがそれを見つめる。「私」がスクリーンを見つめる。そして「私」の新たなパーソナリティーが発見される。『人生はビギナーズ』は、かけがえのない「初心」を気づかせてくれる、という意味で、真に親密な映画だ。傑作。



追記*犬が本当に素晴らしい。メラニー・ロランのこと大好きなんだろうね、としか思えないショットがある。そしてハーヴェイ・ミルクマイク・ミルズの監督したブロンド・レッドヘッドのPVは、本作と繋がりがあるよ。『人生はビギナーズ』の音楽の使い方は本当に素晴らしい。それだけで何か論じられるべきだとすら思う。右の画像のようなこんな写真と連動する音楽です。そして、いつの間にかメラニー・ロランは監督作品を撮りあげたそうだ。処女作『Les Adoptés』は11月にフランスで公開されるそうだ。


追記2*来年の2月に日本公開。公開決定してるの知らなくてフライングしてしまいました。が、これは改めて見に行く。楽しみ。以下、予告編。