『メカス×ゲリン 往復書簡』(ジョナス・メカス、ホセ・ルイス・ゲリン/2011)


東京国際映画祭1日目。メカス×ゲリンの往復書簡はゲリンによる「反射」の話から始まる。「いい反射が撮れそう」だと、最近作『ゲスト』のように外へ飛び出しアスファルトに反射する自身の姿、そして目的の回転ドアに反射する行き交う人を次々とカメラに収めるゲリン。「おそらくあなたが、一人で映画を撮る、最後の映画作家だ」。この二人による敬意の交感=往復書簡は、『ゲスト』において一人旅を記録したゲリンのメカスに対する敬意が圧倒的に強く、ゲリンから贈られる親愛なる敬意に、メカスが持ち前のユーモアでレスポンスする、という反射が面白い。たとえば、メカスは最初の書簡で「都会を歩く美しいスカーフの女性」をモチーフにする。ゲリンの映画を知っている者なら、この「都会を歩く美しいスカーフの女性」という匿名性にピンと来ずにはいられない。地下鉄のホームでトランペットを吹くメカスに、スカーフを振って応える向こう側の女性。この最初の書簡で早速メカスはゲリン作品への自己流オマージュをやってみせる。さらにメカスが自宅で響かせたラテン・ミュージック(マンボ)は、ゲリンの返信においてストリートを歩く黒人の青年の抱えるラジカセ(オールドスクールだぜ)から爆音で鳴らされる。このシーンは実際に現場で音楽が鳴っているわけではないものの、お互いの「反射」をこうやって表明するユーモアにニヤリとさせられる。書簡はここから二人の創作に関するパーソナリティーを提示しはじめる。



「過去のアウトテイク(フッテージ)を繋ぎ合わせて、私の最後の作品にしたい」と語りながら編集機をコマ送りするメカスのシーンには、この映画作家の魅力のすべてが凝縮されているようで感銘を受ける。「セントラルパークのどこかに幸せな人がいる」。既に褪色してしまったフィルムがコマ送りされる度に、そこには追憶という発見が泉のように湧いてくる。そしてゲリンのパートの名台詞。「彼女の視線。この視線が私たちが映画をつくる動機だ」。撮影後に亡くなったスロベニア映画批評家の女性(ゲリンからの逆取材)に関するゲリンのくだりが素晴らしい。このシーンやこの台詞には、ゲリンの映画がモチーフにする「匿名の女性」と「世界各地に散らばった類似性」へのインスピレーションの原石を読むことができる。そこには自身を突き動かす決定的な「視線」に関して、レクイエムの思いさえ込められているだろう。そしてこの往復書簡でもっとも感動的なシーンはゲリンのこの祈りが、追憶の地へ向けられた数分間だ。


最終章でメカスへの敬意を”慎ましく総括”したゲリンは、小津安二郎の墓のある北鎌倉の地を訪れたときのフッテージを紡いでいく。ここで、ふいにすべての音を消さずにはいられなかったゲリンの「思い」に、激しく胸を打たれた。この黙祷を捧げるような沈黙の数分間はこの上なく美しい。静けさが心の中央にピンと張りつめるような数分間だ。ゲリンの「世界各地に散らばった類似性(双子)」の探求には、それ自体が既に失われてしまったものに対するレクイエムでもあるのだろう。


追記*ラフなスケッチで日記を撮るように撮られたメカスの映像に対し、ゲリンの映像は生真面目なほどカチッと作られている。この往復書簡におけるメカスのラフな映像に関しては、ゲリンの言葉がすべてを語っている。「風は己の望む方向にだけ吹く」。つまりメカスがカメラを持って外に飛び出せば、街角でジム・ジャームッシュとばったり、なんて当然のことなのだ。ジョナス・メカスとはそういう特別な存在なのだろう。コマ送りされた編集機に映った若きメカスのこの顔(上記画像)、そして変わらぬ視線を堪えた現在の顔を見れば、それはすぐに分かることだ。そして視線とは動機のことである!


『メカス×ゲリン 往復書簡』は10月27日にも上映あり。
http://2011.tiff-jp.net/ja/lineup/works.php?id=169