『猿の惑星:創世記(ジェネシス)』(ルパート・ワイアット/2011)


猿の惑星:創世記』の不意打ち感がハンパないのは、ルパート・ワイアットが、サム・ライミトニー・スコット以降の次世代の映画作家である、という新鮮なオドロキによるものだけでなく、この映画作家の題材に対するケリのつけ方にひどく感銘を受けたことに多くを拠っている。エンドクレジットは人間より猿が先にくる、という計らい以上に、ルパート・ワイアットはこの作品で猿にCG処理を駆使することに対する「人間様」の傲慢にきっちりとケリをつけている。しかもアクションは直線的に結末へ向かうのではなく、世界の塵を磁石のようにフィルムに寄せ集めながらグイグイと強度を増して破局と再生(つまり革命だ)に向かって進んでいく。そこにはこのシリーズに対するリスペクトもあるだろう。猿の擬人化と人の擬猿化。なるほど、CGの猿があたりを軽快に跳ねていくアクションは、確実に『スパイダーマン』以降のものだし(当初予定されていたトビー・マグワイアからジェームズ・フランコへ移ったキャスティング然り)、ラストの激戦、特にヘリからの流れるようなショットの挿入やそのタイミングにはトニスコの熱を感じずにはいられない。しかし特筆すべきはルパート・ワイアットが施す題材への知的な処理だ。



「新薬/劇薬」という猿にCG処理を施す理由が予めプロットに含まれていることも含め、『ボビー・フィッシャーを探して』や『リトルマン・テイト』のように、仲間からも恐れられる孤独な「天才(少年)」の肖像を一匹の猿に投影させる擬人化に留まらず、「牢獄」を舞台にする映画の最良のシーンだけをサンプリングしたかのように展開される猿の幽閉・脱獄。また牢獄の監視人の見事な猿顔や、アメリカ映画に出てくるバカ面としか言いようのない何も考えてなさそうな若者を含め、擬人化・擬猿化は、それこそ最良のサンプリングのように処理され、さらに其処に鮮烈な置換が加えられていく。この擬人化・擬猿化が置換可能になるだけの強度は、たとえばアルツハイマーを患う父親への新薬投与という、ややもすればアクロバティックにすらなりかねないギリギリな語り=伏線の巧みな処理(父親がピアノで弾くのは壊れきった「月の光」なのだ!)に加え、『アバター』以降の「CGの顔の方がより人間ぽい表情に見える」という技術にも認めることができるだろう。シーザー(猿)は悲劇を背負った天才でありサイボーグ=CGであると。だからこの素晴らしいアクション映画の行き着く先に、勝利でも敗北でも別離でもない「現状」を叫ぶ声を聞くことは、興奮と共に必然的な痛みを伴うものだ。それは『猿の惑星:創世記』が、「ケリをつけた」ということなのだ。傑作。


追記*サルのことばかり書いたけどジェームズ・フランコといい、ヒロインのフリーダ・ピントー(すごく素敵な女性だ!)といい、キャスト陣が一様に素晴らしかった!