『5windows』(瀬田なつき/2011)


≪港のスペクタクル≫建築×映画×音楽×アートプログラム@黄金町で上映された瀬田なつきの新作『5windows』に行ってきた。「5つの空間に散りばめられた短編映画」(黄金町を歩くのです)という特殊な上映形態を持つこの作品のファーストインパクトに、コインパーキングを選んだのは正解だったのかもしれない。駐車場横の建物の窓に設置されたスクリーンにおもむろに投射された、この「瀬田なつき色」を体現したとしかいいようのない美しい少女が、ふと、自らを捉えるカメラの後ろに(つまりこちら側に)何かもの言いたげな、不思議な間で視線を投げたとき、この少女によるファーストインパクト=「発見」は、少女という主体による「発見」を越え、スクリーンに視線を注ぐ観客と直にアイコンタクトをとることを可能にしてしまう。つまり私たちはスクリーンに「少女」を発見し、また、スクリーンの少女によって私たちが「発見」されるのだ。そこにある/ない、たしかな視線の交錯が、『5windows』という作品自体が終始、身をもって体現する「探す」という行為(25分ヴァージョンのあのファーストショット!を参照)と結びついたとき、この作品の強度が計り知れないものだと気づかされる。『5windows』では常に探すこと=「発見」に次ぐ「発見」が繰り返される。では、4つのスペース+劇場で上映される、4人の登場人物のそれぞれが探し、発見するものは何か。25分ヴァージョン以外ではカットアウトされてしまった未完成のメロディーの断片か?バラバラに点在する存在の、思いで結ばれるいとしい偶然の繋がりか。果てまた懐かしい未来へ向けて逆走する走馬灯か?少女がふと心の中でつぶやいた言葉が頭の中をぐるぐると廻り続ける。「14時50分」「同じアングルは何処だったっけかな?」


そう、「同じアングル」は何処にもない。その瞬間は二度と訪れない。あの橋の上の少女の髪にそよぐ魔法のような風(ここだけスローモーションに見えるほど残像が残る美しいショット)も、少女の蹴った空き缶や鼻歌や紙飛行機の行方も、染谷将太の自転車のスピードと調和する見事なカメラワークも、ビルの上から見下ろす橋の、登場人物が同じショットに収まる偶然のような風景も。斉藤陽一郎の手持ち花火が湿けてしまって火が点かなかったように、幻影さえもが、二度と同じアングルを「発見」することができない。『彼方からの手紙』+『あとのまつり』という2大傑作を生んだ瀬田なつきとカメラマン佐々木靖之の黄金コンビの本作における面白さは、瀬田監督がカメラの後ろから手探りで「発見」しようとしているものを佐々木氏がトレースするのではなく、佐々木氏もまたカメラを介して新たな「発見」をしよう(取り入れよう)としている、という、二つの実験的な視線が幸福な結晶として画面から読み取れる、画面に漲っているところだ。『5windows』のとてつもないスリルは、再現不可能なものに対する再「発見」そのものへの挑戦であり、再「発見」に対する美しい敗北、転じて勝利、音楽という無形のものと手を結ぶことのできる奇跡的な調和の画面のようでもある。ラストショットの涙をこらえた少女から始まる、あまりにも魔法のような撮影(スクリーンの少女は必死に涙をこらえているというのに、少女に視線を向ける私は、とてもじゃないが涙をこらえることができなかった)は、消えては浮かぶメロディーを走らせ、懐かしい未来へ逆走する走馬灯のようにカメラを走らせる。おそらく私はこの少女の表情と、この少女が歩きながら=散歩しながら「発見」していくメロディー、この光景を忘れることはできないだろう。瀬田なつきによるオドロキに満ちた「発見」への挑戦を、こうやって同時代に体験できることの幸福を、いま心から噛みしめている。


追記*映画館の帰り道に、舞台となった橋を再び歩くことの、ほんの数十分前のノスタルジーに震えた。いやー、ホント想像以上だったよ。以下「漂流する映画館」公式サイト。上映は明日まで!できれば私ももう一度見たい。再上映熱望!
http://spectacleonthebay.com/plays/cinemadenomad/


追記2*瀬田なつきのジャンプカットは早速ゴダールのジャンプカットとは何の関係もない独自の次元に達している。『5windows』のジャンプカットはほとんど舞踏のようでさえある。