『ベルタのモチーフ』(ホセ・ルイス・ゲリン/1985)


輸入DVDでホセ・ルイス・ゲリンの長編デビュー作品。『ベルタのモチーフ』の発表は1985年とIMDbに記載されているものの、撮影自体は1983年に行われた。ということは、ホセ・ルイス・ゲリンが弱冠23歳のとき撮った作品ともいえるわけだ。おい、ちょっと待て、と。『ベルタのモチーフ』には既にゲリンの傑作群を支えるモチーフのすべてが出揃ってるではないか。『ベルタのモチーフ』は監督第2作『イニスフリー』(1990)と、個人的にこよなく愛している『影の列車』(1997)のちょうど間にあるような作風のようであり、その二つを一つの作品でやってしまったともいえる作品だ。またここには『シルビアのいる街で』に繋がる「女性=X」という主題を確認することもできるだろう。さらに最新作『ゲスト』(公開熱望!)に繋がる「異なる場所(国)に生まれた異なる母を持つ双子」を見つけることすらできるだろう。恐るべきことに『ベルタのモチーフ』という処女作でゲリンの野心は既に完成されている。これ以後のゲリンは、同じ主題を、映像と音声による、より一層の洗練とその崩しに向かっていると考えることもできる。『ベルタのモチーフ』は、よく言われる「処女作ならではの瑞々しさ」という言葉からも既に離れている。ゲリンは最初っから洗練された映画を撮っていたという方が適切なのかもしれない。そもそもこの映画の最初のショットに触れた瞬間、これがいつの時代に撮られた映画なのかさえも分からなってしまうのだ。



いつの時代のどこを舞台にした映画なのかさえ分からない本作は、主人公の少女=ベルタがカウボーイハットを土に埋めるシーンに象徴されるように、掘り起こされたタイムカプセルのような時制を持っている。裸で外風(やはり処女作から「風」はゲリンの重要なキーワードだ)に曝されたタイムカプセルは、内部に過去の記憶を真空パックしながら外部と共生する。隣家すら何10キロと離れていよう、見渡す限り草原が続く果てのない土地の真ん中にポツンと捨てられた廃車(画像参照)の中で、少女ベルタは何者かと視線を交わす。遠くの山から視線を投げるインディアンと出会ったかのようなこのシーン、またはイザベルの視線を感じたピエール(『ポーラX』のカフェのシーン)のような、この美しい視線の衝突シーン以降、少女ベルタの未来はこの謎のカウボーイハットの男に導かれる。ベルタの家族に「頭が狂っている」と評されたこの人物の語りが、『ベルタのモチーフ』の語りと並走を始める。「真っ白いドレスを着たブロンドの美しい妻」はあの車(廃車)で死んだ、しかし「彼女はまた戻ってくる、それを待っているんだ」と男が語るとき、少女ベルタはついに女性=Xへのメタモルフォーゼ(「変身」であり「転生」)へと向かうだろう。「転生」。思えばこの人気のない土地自体がどこか楽園のようであり(家族とのピクニックや美しい水浴びのシーン。ジャック・ロジエのような「水」だ!)、あの世のよう(Y字路)ではないか。ここまでは『影の列車』で扱われた作者不詳の「ロストフィルム」の風景を想起せずにはいられない。そして、この土地に映画の撮影クルーが来るとき、そして少女が乗る自転車が用意されるとき、『イニスフリー』が準備される。過去の記録と現在の記録を等価の語りでフィルムに刻んだそのあとに、撮影クルーというフィルムの現像前=未来の装置が加わるのだ。貴族的なコスプレをした「俳優」の中に、再び女性=Xが現れる。彼女はブロンドで白いドレスを着ている。この女性が「女優」であることが『ベルタのモチーフ』のもっとも奥深いところだ。この女優を演じるのは『海辺のポーリーヌ』(エリック・ロメール)のアリエル・ドンバール(下記画像参照)。



ベルタのモチーフ』において「時」は過去と現在と未来の同一画面における混在(浸入)だけに留まらず、自在に止まる。目隠しをされた女の子がくるくる回って「ストップ」と言うと周りの男の子たちが静止する遊びが象徴的だ。廃車の窓から身を投げ出すように座る少女ベルタをいくつもの角度から捉えた細かいショットの連鎖のように、「時」は止まっては戻り、また歩みだすだろう。このときの少女ベルタが以前の少女ベルタではなくなっていることは言うまでもない。これは映画ならではの「加工」だ。ゲリンは処女作において既にこのテーマを追求している。カウボーイハットの亡霊を草笛が呼んでしまったとするならば、それと符合するのが、撮影クルーのテストする拡声器の音声だろう。この加工されたエレクトリックな音声が大地にやまびこを起こすとき、女性=Xはさらに複数化されて召還される。またパントマイム的なジェスチャーのやまびこ。廃車の中でハンドルのないハンドルを運転する弟のジェスチャーが、遠くに反響してやまびこを起こすシーンがある。『ベルタのモチーフ』においてやまびこは「反復」と言い換えられるだろう。「女優」が白い馬に乗って駆け回ることすら「反復」なのだ。


と、ここまで語ってきて以上の全てのことは、結局のところゲリンのどの作品にも当てはまるだろう。ただひとつ。ゲリンの映画では「夜が訪れる」という単純な自然の変化だけでこちらを震撼させてしまうことは記しておきたい。『シルビアのいる街で』の「風」はそれを極端に前景化させた例だろう。『ベルタのモチーフ』の冒頭でフェイドアウトが繰り返されるのは、この「自然の夜」と「人工の夜」の共生に思える。そして「本当の夜」がとても恐ろしいものであることを『ベルタのモチーフ』や『影の列車』は教えてくれる。また壊れた扇風機が起こす「風」の異変と「本当の風」が起こす異変にも注視したい。『ベルタのモチーフ』にはこんな台詞がある。「なんて強い風なの!この家ごと吹き飛んでしまいそうだわ」。この台詞以後、幼い弟は本当に「家」を破壊してしまうのだ。


追記*自作についてあまり本音を話さないホセ・ルイス・ゲリンがいつになくご機嫌に語っているインタビュー(英文)は、ゲリンファン必読ですよ。フランク・ボーゼージの『Man’s Castle』やウィリアム・ディターレの『ジェニーの肖像』が好きとか。ゲリンは「世界各地に散らばった類似性」を探しているそうです。この言葉を踏まえると『ゲスト』の冒頭で美しい女性二人が『ロシュフォールの恋人たち』の「双子姉妹の歌」を歌う理由が分かります。面白いです。
http://mubi.com/notebook/posts/2632


追記2*「白いドレスを着た美しいブロンドの髪の女性」といえば、いま真っ先に頭に浮かぶイメージはあの女優以外の何者でもありません。『アンジェリカの不思議な事件』、ピラール・ロペス・デ・アジャラ。『ベルタのモチーフ』は遠く21世紀のオリヴェイラにまで反響したようです。


追記3*一言書き忘れました。『ベルタのモチーフ』は傑作です。2回見ましたが、最初に見たときは思わず最高傑作!って言葉が喉元まで出かけるのを抑えたくらい。依然としてホセ・ルイス・ゲリン特集熱望。以下、『シルビアのいる街で』公開記念にまとめた「ゲリン記事まとめ」。
http://d.hatena.ne.jp/maplecat-eve/20100630

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