『ドラゴン・タトゥーの女』(デヴィッド・フィンチャー/2011)


例によって台詞を意図的に過剰にすることでフィルムに強度を加えていくデヴィッド・フィンチャーの新作は、前作『ソーシャル・ネットワーク』において、マーク・ザッカーバーグの致命的な失恋に導かれた、怒りにも似た動機、その劇的な人生のスピードが、しかし恋愛の上では決して成就されることがなかった(成就され得ないのだ)ように、『ドラゴン・タトゥーの女』の主人公リスベットの持つ特別な能力=一瞬の視線によるデータ化(ミカエルに差し出された資料を一瞥で捨て、自らの瞳を指さす印象的な、"I've got it"のシーン)は、リスベットの特別な能力ゆえに、悲劇的なショットによる視線の受難に導かれる。失踪したハリエットからヘンリック(クリストファー・プラマー、素晴らしい!)へ贈られたプレゼントを左右の壁の区切りで暗号化させるシーンなど、冒頭から何処をとってもデヴィッド・フィンチャーの烙印が刻まれた『ドラゴン・タトゥーの女』に描かれる「恋愛」が、森でミカエルが銃撃されるシーンや、マルティンの家の恐怖が迫ってくるサスペンス(デヴィッド・フィンチャーは『ゾディアック』の殺人シーンよろしく、どこから何が襲ってくるか分からないシーンを描くのが実に上手い!)と同じくらい豊かなのは、リスベットとミカエルへの倒錯的なカメラアイによるだろう。



まるで女性のように撮られたダニエル・クレイグに注目したい。愛人の前で全裸で椅子に寄りかかるミカエルの、およそ男性的と呼ぶには柔らかすぎるその寒さに震える肌から伝わってくる感触や、リスベットがミカエルに迫るシーンにおける、窓枠の外から着替えるミカエルを捉えたカメラの、覗き見的な艶めかしい揺れる視線は、ほとんど倒錯的だといえる。ここでリスベットの素早い作業が、豚野郎への復讐シーンのように手際よく撮られていることも面白く、しかしそのアクションはどこか悲痛でもある。なぜならリスベットには、彼女の意識下の「やり方」が、親密な関係を結びたい相手に対しても染み付いている、ということでもあるのだ。後見人にボビー・フィッシャーの本を贈ろうとするリスベット(本作の脚本は『ボビー・フィッシャーを探して』を監督したスティーヴン・ザイリアンだ!)が描かれていたように、リスベット自身の抱えるファザコンは劇中、何度か暗示されており、このことからミカエルとの関係がより奥深い豊かなものになっていく。何より、ハリエット事件の結末にリスベットが見せる無言の表情は、すべてを語っていた。リスベットは視線によって目の前の光景をデータ化してしまったがゆえに、唖然と立ち尽くすしかなかったのだろう。



だからこの映画はリスベットとミカエルが暗黙の視線の了解をするシーン(ミカエルと視線を交わしバイクのヘルメットを被るシーン)からより活気を帯びる。視線による把握が、加速度を増していく。同じようにカメラによる視線が問題になった、PC内に収められた資料の画像データ(これはこれ単体で映画内映画のように魅惑的だ)が、クリックによるコマ送りで進んでいくのと、リスベットの現実世界における一瞬の視線による把握は、おそらくどこか似ている。PC内のデータ化された記号への視線と、そこには決して映らないもの、という点において。パレードのストリートで偶然そこに映っていた美しい少女ハリエットのその後について、当時写真を撮った女性が何も知る由がなかったように、『ドラゴン・タトゥーの女』の結末は、リスベットの視線によって目の前の光景が誰にも知られずにデータ化される。その視線がリスベットによる"I've got it”であるだけに、この結末はひどく美しくひどく悲痛だ。


追記*計3回見て、3回目が一番よかった。初見時は「もしかして原作読んだ人向けに了解の上で物語進めてる?」って思ったくらい。すべて把握した上で見ると、やっぱり無駄がなくて言葉本来の意味でスマートな作品だったね、という私は完全なリスベット主義者です。ブロンドのウィッグ姿のリスベットもお人形さんすぎてかわいい。遠くで鳴ってるノイズが美しいサントラもベリーグッド。

Girl With the Dragon Tattoo-Soundtrack (3cd)

Girl With the Dragon Tattoo-Soundtrack (3cd)