『自滅しなさい:静かなる銃』(セルジュ・バール/1969)


ジュリエット・ベルト特集その5。ジュリエット・ベルトは『ウィークエンド』と『楽しい知識』の間にザンジバル・フィルム(映画制作コミュニティ)の作品に出演している。この「自己破壊」と題された作品は68年5月革命の前夜、68年の4月に撮られたというテロップが冒頭で記される。革命前夜の若者を一人の女性を主軸に非常にコンセプチャルに撮られた映画だといえる。ジュリエット・ベルトの出演シーンは少ないものの、ゴダールとの一連のコラボで得た志を受け継ぐように、ベルトが5月革命以前以後を身をもって通過している、ということが重要になってくるだろう。また、ここにもまたもや「自己破壊」という名の「トランス」というキーワードが出てくることにも注視したい。『Detruisez-vous』は映像や言葉を饒舌に重ねることが、同時に映像と言葉の消失へと向かう、という映像と言葉の強度に関する存在と超越(トランス)、無の関係をコンセプチャルに描いた作品だ。



この作品がアンディ・ウォーホールの『スクリーン・テスト』に意匠を借りていることが興味深い。女優が黙ってカメラに視線を向け続ける長いショットが何度か挿入される。『スクリーン・テスト』がそうだったように、照明を当てられた女優の、動きのないこの長さが、次第に顔の輪郭に孤独(孤高)の影を浮き彫りにする。顔という名の影はここに強固に存在するが、存在が強固であればあるほど、その顔がフィルムと同化することで、存在そのものが消えてしまいそうな脆さと表裏の関係になる。単純な言葉で男性との問いを繰り返す『Detruisez-vous』の女優は、ちょうど撮影フィルムが切れるところで、すべてを忘れる。饒舌に語られた過去は、長い長いシーンの終わりには言葉の意味を剥奪される。または忘却される。高い壁(刑務所の壁)に沿ってジュリエット・ベルトと歩きながら語る革命に関する会話は、完全にハイの状態だった過去に「最悪ね」と吐き捨てることで、すべてを忘却させてしまう。無の状態(存在)から言葉を重ねることで意味を獲得し、言葉を重ねることで意味を失くす。『Detruisez-vous』は終始一貫してそれだけを反復させる。それは言葉だけでなく映像の無化にも向けられている。



革命の講義をする教壇の男性がひたすら言葉を重ねた挙句、言葉とイメージの結託という強大な権力の存在を失くす(それこそが革命だと男性は説く)ことの見本を示すために壇上から降りる。カメラは無人の教壇を捉え続け、画面の外から革命を説く男性の声だけが聞こえる。やがてその声を補足する「イメージ」であるところの無人の教壇すら消え、画面の黒味の中で声だけが響き渡る。この一連の流れは作品の主題を三段階で簡潔に示している。このシーンの直後、無音の街を歩く女優が、カメラに向かって涙を浮かべながらひたすら笑顔を向け続けるシーンは掛け値なしに美しい。シーンの終わりごとに不安な存在と言葉をこちらに投げかけていた彼女の「発見」が、音(言葉)のない世界で剥き出しにされる瞬間だ。『Detruisez-vous』は再び冒頭の『スクリーン・テスト』に戻る。カメラには以前と変わらぬ孤独な女優の影と視線が向けられている。しかしその視線には切返しがある。この初めての切返しによって映されたモニター(闘いの映像)と彼女の孤独な影との間にこそ、革命や存在への終わりのなき問いはあるのだと思う。『Detruisez-vous』は終わりなき問い、そのものに関する映画だ。


追記*IMDbによるとセルジュ・バルド(もしかして読み方バールかな?)はこの前年にダリの映画を撮っている。


追記2*『処女の寝台』(フィリップ・ガレル)のDVD映像特典に入っていたザンジバル・フィルムの『Home Movie』(フレデリック・パルド)も忘れがたい。


追記3*先日『スクリーン・テスト』を大雨の夜に部屋真っ暗にして消音で見たら、雨の音とのマリアージュがヤバイくらい素敵だった!


追記4*セルジュ・バール『自滅しなさい:静かなる銃』という邦題で日仏学院で上映(フィリップ・ガレル特集)されたことがあるそうです。監督名及び邦題を訂正しておきます。