『Les bien-aimés』(クリストフ・オノレ/2011)


キアラ・マストロヤンニカトリーヌ・ドヌーヴリュディヴィーヌ・サニエルイ・ガレルのオールスターキャストで描くクリストフ・オノレの新作は、これまでになく、役者の調子、撮影の調子、演出の調子、編集の調子が、画面に調和した愉快な作品だ。ハイヒールで街をひたすら歩くキアラ・マストロヤンニカトリーヌ・ドヌーヴリュディヴィーヌ・サニエが、その靴で国境と時空を越え、やがて宿命的なデジャヴという名の「再演」にめぐり会う。クリストフ・オノレのこれまでの作品と趣を異にするのは、参照点の微妙なズラシ方だろうか。『Les bien-aimés』が披露する「軽さ」の妙技には、どこか当事者の熱から一枚フィルターを介したかのような、”まがいもの”であるがゆえの風通しのよさ、客観性がある。開巻早々のポップミュージックの響き方に『ブロンドの恋』(1965)を思い出したのは偶然ではない。この作品にはミロシュ・フォアマンが役者として出演しているのだ(フォアマンの登場の仕方、消え方が愉快すぎる)。たとえばドヌーヴとキアラとルイ・ガレルが3人で腕を組んで歩くシーンなど、自らをヌーヴェルヴァーグの嫡子として位置づける意図がある、というよりも、それがそれとして結ばれるべく結ばれた、という運命=演出と偶然が互いにせめぎあうような絶妙な喜びを画面から放っている。ここにきてクリストフ・オノレは客観性を得ることで軽さの芸を身につけたのかもしれない。思わず指笛を鳴らしたくなるライブハウスでのキアラ・マストロヤンニのダンスシーンに、一番の変化を感じた。壁に寄りかかって失恋を歌うウジウジしたミュージカルは、もはやここにはない。



『Les bien-aimés』は、『ブロンドの恋』のミロシュ・フォアマンや初期のヴェラ・ヒティロヴァが意識的に展開していたチェコヌーヴェルヴァーグの軽妙さをアップデートする試みのようにも思える。ハイヒールという小道具は、『ブロンドの恋』の舞台が製靴工場の田舎町だったことへのオマージュなのだろう。また、若き日の母を演じるサニエと母の現在を演じるドヌーヴ、小さい頃は黒髪という設定だった娘のキアラ・マストロヤンニまでもが、ブロンドの髪の女であることを画面に強調させるのも、明らかな目配せだ。しかし何より、『Les bien-aimés』は、母娘の親子2代に渡る世界との闘争やすれ違いを、鮮やかな色彩とポップミュージックの調和によって描く、現代の女性を描いた絵巻物=”女の一生”としてファッショナブルに記憶されるだろう。その軽さこそが素晴らしい。その点で、ANIKAの歌う"I Go To Sleep"のイントロが何度も印象的に使われるのは面白い。ニコのような歌声を持ったこのシンガーの眠りの想像力が、壁に掛けられた絵の中の「眠り姫」と共振し、やがてそれが二人の女性(母娘)の生涯へのレクイエムのように劇中に響くからだ。カトリーヌ・ドヌーヴリュディヴィーヌ・サニエによる「再演」(若き日)を、映画のワンシーンを見るかのように目の前で目撃するシーンや、その直後のサニエの、お人形のように無垢でやるせない表情(かわいい!)には、女優という職業の意思について考えさせられる。女優がスクリーンに決定的な表情を刻むとき、その意思は亡命と結ばれるということなのだ。


追記*ミロシュ・フォアマンの役名”ヤロミール・パッサー”は、チェコ出身の2人の監督、ヤロミール・イレシュとアイヴァン・パッサーからきています


追記2*レア・セイドゥという素晴らしい女優の「発見」のあった『美しい人』でさえ、細部まで演出が行き届いてない(私はこの作品が好きなのだが、正直演出はグダグダだと思う、好きな人、ごめん)ことを露呈していたオノレの映画ですが、この作品には試行錯誤する工夫の痕跡が少し多幸症的に残っていて、そこがよいのです。


以下、『Les bien-aimés』予告編。