『Sorelle Mai』(マルコ・ベロッキオ/2010)


マルコ・ベロッキオの新作は、フィルムの何処を切っても強烈なパッション(情熱/受難)が炸裂していた『愛の勝利を』とは真逆といってもいい作品に仕上がっている。『愛の勝利を』を、この巨匠の抱えたコアが前衛的なまでに画面に展開された、ある意味近寄りがたいほどの傑作だとするならば、『Sorelle Mai』はカメラが被写体に親密に(本当に距離が近い)関わることで、過度にパーソナルな、この巨匠の別のコアに触れることができる作品だといえる。なにしろこの作品はベロッキオ・ファミリーの総出演で撮られた、個人企画のフィルムなのだ。六つのエピソードから成るこの新作の撮影は1999年〜2008年の間に断続的に行われた。この作品の前半3つのエピソードが『Sorelle』(2006)としてローマ映画祭で披露され、その完成版がこの『Sorelle Mai』となったらしい。当然この撮影期間の間に出演者の容姿は著しく変化している。ベロッキオ自身が本作を「アクシデントの映画」と呼ぶように、『Sorelle Mai』は家族の肖像を、その肌の推移をドキュメントするかのような親密さで刻んでいる。ただ面白いのは、この作品があくまで「幻影としての自伝(人生)」であることを強調しているところだ。「人生の幻影」。『Sorelle Mai』では冒頭から『ポケットの中の握り拳』(1965)の断片が挿入される。あの精神分裂症的な若きルー・カステルとあの家族の残像が、この作品を支配している。ベロッキオはあの家族の事件と落とし前をつけるため、さよならを言うために、本作を撮ったのだろう。



舞台となったボッビオのトレッビア川を捉えるカメラに、ペドロ・コスタが造形大の講義で引用したルイス・ブニュエルの言葉が頭をよぎる。この川でかつて何か重大なことが起きたことを、平穏な静けさと不穏な空気の同居によって感知することができる。この川の出てくる前に、『ポケットの中の握り拳』で救いようがなく断絶していた家族の食卓の風景が、『Sorelle Mai』の幸福な食卓に推移していることが同じく映像の挿入によって示されはするが、ドアの奥から入ってくる2人の老婦人の重力を失ったかのようなスローモーションによって、この家に憑いた過去=亡霊がふわっと画面に浮かび上がる。なるほど、息子の車の運転はルー・カステルのようにスピードに憑かれてはいない。かつてこの風景を支配した「握り拳」は此処からは消えてしまったかのようではある。が、すべてがキラキラした遊戯の映像(瑞々しい!)とは裏腹に、この川の異様な静けさや、川面に降る雨の跡によって、幻影=過去(フィクションであることが重要だ)は自らが形作る影絵のように何度も浮かび上がる。カメラは生きている人間と同じくらい無邪気な亡霊たちを踊るように捉える。この幻影にさよならを告げるにはどうすればよいか。『Sorelle Mai』は、イオセリアーニの新作がそうであったように、幻影の仕事を人生=幻影の仕事の中で落とし前を付ける。その悲劇的でユーモラスな長い長いお別れは、かつての怒りの行方、「握り拳(フィスト)」の行方を、カメラを介して見つめ続けることで弔うかのような、幻影=人生の痛みと慈しみに溢れていた。素晴らしい作品。


追記*ペドロ・コスタが引用したルイス・ブニュエルの言葉。「たとえば映画において河や小川を描こうと思ったならば、その河や小川で一世紀前には人が水浴びをしていた、水浴びができたのだ、ということを観客に分かるように描かなければならない」


追記2*今年のイタリア映画祭で上映されるんじゃないかなと、期待も込めて勝手な予感はしています。今回改めて『ポケットの中の握り拳』を見てみたのだけど、初見のときよりすごい映画に思えた。あれはルー・カステルの「ゲームの不規則」だよ。可能なら新作の上映に合わせてこちらも上映されるのがベストだと思う!


追記3*アルバ・ロルヴァケルが美しい。ベロッキオは現在彼女主演の新作『La bella addormentata』を撮影中。


追記4*あっ、「ベロッキオ・ファミリー」ってベロッキオ組ってことじゃなくて、文字通りベロッキオの親族の方たちが総出演ってことです。個人映画。