『フロリダ・プロジェクト 真夏の魔法』(ショーン・ベイカー/2017)


いったいどうやって撮ったんだ!?ロングショットが意外と多いのに、やけに密着感、親密感が残るのは、ギャー!とかイェー!とかウォー!とか、セレブレーション、カモン!よろしく、ハイテンションな子供たちを笑いながら見ている自分の視線がまるごとこの子たちに同化してしまうからなのか。『フロリダ・プロジェクト』の奇跡/軌跡をまるごと呑み込んだ末に残るのは、この子供たちが撮影が終わって、はい、解散、というよく出来たフィクションのフレームに収まらないどころか、この作品を体験(というより、体感という言葉の方がこの傑作にはふさわしい)した者とこの子供たちがたったいま同じ世界を生きている、同じ空気を吸っている、手を伸ばせばすぐに手を取り合うことさえできてしまえることへの確かな輪郭を持った感情だ。この作品に感銘を受けた者は『フロリダ・プロジェクト』という作品、そしてこの作品を手掛けたショーン・ベイカーや何よりムーニーちゃんと、がっちり握手を交わさずにはいられないだろう。ショーン・ベイカーは子供たちをフィクションの中に閉じ込めない。おとぎ話や絵本の中に閉じ込めない。予め準備された結論の中に閉じ込めない。『フロリダ・プロジェクト』は子供に憧れた大人の撮った映画ではないのだ。根っからのインディーズ映画作家KENZO&アビー・リーと組んだ『Snowbird』は上手くいっているといえるだろうか?)であり、ジョン・カサヴェテスエリック・ロメールを尊敬するショーン・ベイカーは、子供たちの遊びと共にある作品を志向/試行することで、あくまでショーン・ベイカーの手法として彼の尊敬する映画作家の作品に刻まれた性質に近づく。たとえばアパートの階段の下は子供たちだけが集まれるスペースであり、大人がそこにいることはない。そういった出発点が既に作品、そして被写体へのヴィジョンを提示している。すべてが子供たちとのその場のチャレンジであることによって近似値を呼ぶ唯一の映画は、フランソワ・トリュフォーの撮った傑作『トリュフォーの思春期』だろう。『トリュフォーの思春期』の冒頭で大勢の子供たちが駆け抜ける幸福なシーン。そして小さな子がアパートから猫を落とそうとする危なっかしいシーン。ハラハラ見守るこちらの気持ち。『フロリダ・プロジェクト』は、ああいった瞬間の連続で出来ている。なによりジョイフルであることは、何故にこれほどまで胸がはち切れそうになることなのか。




ショーン・ベイカーはハル・ローチの手掛けた『ちびっこギャング』に強く影響を受けたことを公言しているが、この荒唐無稽のサイレント〜初期トーキー期のコメディーと1994年にリメイクされた『ちびっこギャング』を比べたとき、時代の移り変わりによって生まれたもの、失ったものの間にこそ『フロリダ・プロジェクト』の志向/試行はある。オリジナル『ちびっこギャング』のアクション重視な荒唐無稽のドタバタ劇に憧れながら、リメイク版『ちびっこギャング』のような大人が子供をコントロールしたウェルメイド感(とはいえ、楽しい作品です)からは、どこまでも遠く離れる。どれも演出された結果であるにも関わらず、『フロリダ・プロジェクト』だけが生活のドキュメントに肉薄しているのは、ショーン・ベイカー自らが大人によって整備された環境に身を投じなかったことによるのだろう。むしろ整備された環境から振り落とされた人たちの中に、行き当たりばったりの生活(そして演出)の中にこそ、ドキュメントは生まれる。ここに前作『タンジェリン』の「嘘ばかりで出来てる街」という台詞を思い出す。フロリダの空や、ピンク色のモーテル、この世界自体が嘘みたいな作り物で、そこには喜びと反転するように悲しみが溢れている。反転は一瞬のスピードで起こる。だからこそ美しい。仰角で撮られたフロリダの空は意外や曇っていて、舗道は雨で濡れていたりさえするのだけど、その反面、廃墟の窓から覗く空は清々しいほど青い空で、目隠しを外せば嘘みたいに感動的な空にだって会えてしまう。嘘みたいなバカ騒ぎ。嘘みたいな眩しさ。過剰にジョイフルであることは悲しいくらいに反転する。裏と表がなくなる。アーシア・アルジェントみたいなタトゥーを入れた素敵なママ(ブリア・ヴィネイト)が、子供たちのバカ騒ぎの果てに記念の写メを撮る。その時、切り取られたムーニーちゃんの表情をどうか見逃さないでほしい。


とんでもない傑作が生まれた。セレブレーション、カモン!この作品が生まれたことに祝福を!





The Florida Project



Small Change


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