『エクスペンダブルズ』(シルヴェスター・スタローン/2010)


オドロイタという表現はやめよう。留保付きの絶賛という人をスッキリさせない言い方を唾棄してしまおう。夜の街を走るバイクと無数のライトが映えるファーストショットから『エクスペンダブルズ』は明快かつ爽快なアクションを、かつて多くの人が夢中になっていたブロックバスターへのノスタルジー/言及と共に現代にアップデートさせる。こんなに飛行機の撮影に夢中にさせられたのは『翼に賭ける命』(ダグラス・サーク)を劇場で体験した一昨年のこと以来だろうか?というくらい映画における「飛行」の楽しさが、アナログのクラシックさと「死の飛行」(下記画像参照)に代表される絶妙な現代性のブレンドによって画面に焼き付けられている。地上戦では、二つのグループが向き合うバトルにおけるキレ味鋭いアクション演出をデフォルトとした上で、接近戦における望遠ズーム多用のアクション処理が独自の表現になりつつあるのも興味深い。それにしても乗り物の撮影と空撮だ。イチイチ拍手を送りそうになってしまった。黒光りバイクはサイコーの一言に尽きる。それ以前に、ここには映画を撮ることの悦びが溢れているじゃないか。だから信用できる。だから泣ける。



ロッキー・ザ・ファイナル』(傑作)が冷徹なまでの自己批評に出発点を置いていたように、シュワルツネッガーの登場に代表されるスタローンの自己言及性は、ある帰属意識を持っている。『エクスペンダブルズ』に出てくるアクションスターが、女にフラれている、ということが重要だ。言葉を変えると分かりやすいのだけど、彼らは一度負けている。さらに言えば世間から負けたことにされている。負けることへの残酷なまでの認識と向き合うことでスタローンの映画は比類なき強さを獲得する。だから泣ける。スタローンのアクションへの動機は極めてシンプルだ。会ってしまった、来てしまった、という理由だけが彼をアクションに走らせる。それは同時に女性への愛の形でもある。そしてスタローンにおける愛の形とは致命的にしくじった「別れ(=失敗)」を意味する。私にはスタローンがこう言っているように思えてしかたがない。一度、負けてごらんよ、と。傑作!


追記*個人的に『ロッキー・ザ・ファイナル』、『チェンジリング』(イーストウッド)、『家路』(オリヴェイラ)を、「現代映画”お家に帰ろう”3大傑作」と勝手に呼んでいる(実際にその台詞が出てくる映画)。


追記2*噂の長渕問題ですが配給会社も劇と被るエンディング曲の差し替えだけはしなかったようですね。あれ差し替えたらそもそもの映画の意味が変わってしまうわけで。一度切れてから長渕という展開でした。要らない以前に付け足す意味がわかんないけど。


追記3*たとえば『アウトレイジ』(北野武)では女は闇に向かうかのように奥へ奥へと消えていったけど、『エクスペンダブルズ』では向こう側から光と共に現れる。それは一見、陰と陽のようだけど、詰まるところ同じことなのではないだろうか。『エクスペンダブルズ』ではもう一人、向こう側から光と共にやってきた者がいる。彼は一連のアクションに参加せず、大統領を目指す。それは「同じ釜の飯を食った」彼との枝分かれの未来を表明するシーンだったようにも思える。スタローンが愛情と共に表明する過去との「惜別」だったのかもしれない。家に帰ることと永遠の別れが切り離せない関係になっている。『ランボー 最後の戦場』のラストショットはその意味で孤高だ。