『Coup pour coup』(マラン・カルミッツ/1972)


輸入DVDでマラン・カルミッツ『Coup pour coup(反撃)』。『Camarades』のラストにおける空へ向けて力強く突き上げられた拳の物語、その続きが展開される。女性の労働を描くということで背景にウーマン・リブ運動が絡んでくるわけだけど、素人を使ったドキュメンタリー風の生々しさが画面を支配しているにも関わらず、カルミッツの演出の力点は、同時期のゴダール『万事快調』がそうであるように、あくまでフィクションの側にある。ただし『万事快調』のゴダールがバラバラな「革命」を描くことで共闘を呼びかけたとするならば、カルミッツの共闘への呼びかけはもっと直線的、共闘というよりむしろ連帯を呼びかけている、というべきか。カルミッツが局所的な小さな物語=革命を描いている/描いてきたことに留意することと、あくまで演出された画面によって革命を切り取ろうとした試みを理解するとき、たとえば不意に意識させられるカサヴェテスやワイズマンのようなフィクション=ドキュメンタリーを自由に行き交う画面の相貌は、『万事快調』の優位性をひとまず置いておいても興味深いものがある。この映画が現実に起こった事件の「再演」だという点はより重要だと思える(DVDの特典映像には当時の記録フィルムが収録されている)。『Coup pour coup』の画面には、むしろ演出家としてのカルミッツの基礎体力の高さが漲っている。


単調かつリズミカルですらある産業のノイズが全編を支配する。単調なリズムは彼女たちの労働のリズムであり、このインダストリアルなノイズ&リズムは彼女たちの日常を幻聴の如く悩ませる一方で、彼女たちの革命への意思に力を与えることになる。つまりハウスやテクノにおける4つ打ちがそうであるように、単調なリズムには退屈と挑発が同居している。「革命」はこのリズムを破壊するところから口火が切られる。一つの機能を破壊することで全体が停止してしまう。ミシン=機材の破壊や流れ作業の中の個人の絶叫がこのリズムを壊す。ここでの女性たちの視線の送りで共犯が結ばれる演出が素晴らしい。女性たちは団結して工場を占拠。環境の改善と不当解雇への抗議を目的としたストライキが行なわれる。社長の乗る車が前進するとフロントガラス越しに不敵に立ちはだかる女性たち、という刺激的な演出の背景で前述のリズムが鳴り響く。リズムの差異と反復。退屈から挑発へ。


工場の監視人(女性の上司)への黒板消し落としのような悪戯に象徴されるように、ここで描かれる革命は、事態の深刻さにも関わらず、深刻になり過ぎることだけを画面から排除している。展開されるのはコドモの悪戯のような、おおらかで無邪気な革命(不意にゴダール作品への「オモチャのような革命だ」という言葉が思い出される)。動物園の「檻」を想起させる社長軟禁のシーン。「檻」を囲んだ女性たちが、尿意を催したり眠気に襲われる社長をからかうこのユーモラスなシーンは、この映画で最も充実したシーンだ。女性たちはギターを抱え、合唱する。勝利の日へ。


この演出家としての充実期を以って以後、映画作家としてのマラン・カルミッツは沈黙することになる。フランス国内における当時の支持が『Coup pour coup』の「連帯」にあったとしても、やはり『万事快調』(1972年!)のバラバラな「共闘」への呼びかけがカルミッツを撃ち抜いた、ということなのだろうか?ゴダールの商業映画への復帰を支援したのは、ほかならぬカルミッツだ(『勝手に逃げろ/人生』)。


ゴダールの諸作品や、同じく五月革命を描いた『西暦01年』(ジャック・ドワイヨン。同じく1972年。アナーキーな傑作!)を横に並べてみたとき際立つのは「革命映画」の持つユーモラスで大らかな表情だね。全然シリアスな顔をしていない。フランスでは『Coup pour coup』、『西暦01年』、『30歳の死』(ロマン・グーピル)と合わせた「68年DVD−BOX」が出ています。


追記*『万事快調』と『Coup pour coup(反撃)』には偶然にもシチュエーションの一致がある。社長が軟禁されて尿意を催すという展開。


追記*マラン・カルミッツの自伝についてや、『Coup pour coup』と『万事快調』について語るゴダールの映像などSomeCameRunningさんの記事が参考になります。
http://d.hatena.ne.jp/SomeCameRunning/20090515