『抱擁のかけら』(ペドロ・アルモドバル/2009)


先週土曜初日に駆けつけたペドロ・アルモドバルの新作。地元シネコンレイトにて。個人的にアルモドバルの近作にはモノ足りなさを感じていたものの、本作のオードリー・ヘップバーンのような髪型をしたペネロペのスチールに期待が膨らんでいた。結果から言えばこれはアルモドバルの最高傑作(全部見ているわけではないのに、そう断言したくなる。過去作だと『ライブ・フレッシュ』が一番だったかな)と断言したい大変な傑作であった。無限の鏡のようにヒロインを捉え続けるカメラ。複雑な構成を非常に高度な次元で達成する脚本。『抱擁のかけら』の画面から伝わってくるのは、たとえばオリヴェイラロメールのような大胆な若返りではなく、経年によって積み重ねられてきた巨匠の大いなる達成である。若手監督には絶対に撮れない作品。すべては継続された動きの中にある。”一人の作家は生涯をかけて一本の作品をつくる”ことを改めて感じる。



視界を失った初老の映画監督(現脚本家)マテオのかつての奔放な恋。映画の冒頭でマテオが家に引きずり込んだ女性と情事を交わすシーンの、視界を失ったことによって強力に発達したかのような嗅覚をともなう触感的な官能(強烈!)が、やがて過去の別の男性のシーンで読唇術という形で再現されるとき、尚且つ、読唇術の台詞を目の前の繰り広げられる映像の被写体であるペネロペ自身の口が発するとき、読唇術を依頼したエルネスト(大富豪。ペネロペの愛人)自身より遥かに大きな動揺、涙を禁じえなかった。エルネストが屋敷で見るペネロペの公式盗撮映像は、女優という職業を選んだペネロペを監視するため、息子にカメラを頼んで撮影現場で撮影されたものだ。ここに3重のカメラアイに入り組んだカメラ=鏡の官能性が浮かび上がり、この官能性は同時に時間軸をも重厚に容易に越えてしまう。


またこの作品はプロセスを描いた誠実な映画でもある。幾重にも重ねられた中途の創造。奔放な恋愛と奔放なモノ作りがスクリーンの記憶と共に宙吊りにされては、文学的とも形容したい官能を呼び覚ます。ここでいうスクリーンの記憶とは大文字の映画史は当然のことながら、アルモドバルのフィルモグラフィー全体を集成するものであり、同時にマテオとレナ(=ペネロペ)、マテオの家族をも含んだフィクションの記憶の集積でもある。すべての官能はファインダー、またはスクリーンに対峙する者との化学反応に賭けられている。それはフィルムノワールのようでありミステリーのようでありメロドラマのようでもあり、つまり祝祭的な映画空間とその呪いにかかった者だけが成しえる苦悩の幸福な克服だ。躍動と悲劇の裏側で獣のように情事を重ねる2人の激しい息遣いが耳に残る。目の前の悲劇をひた隠すようにスクリーンでコスプレをしながら無邪気に躍動するペネロペを見よ!


何者かによって邪魔されてしまった恋愛とモノ作りが過去と未来の多重反射的、複雑な経路を経て成就されるかされないか。この呪われたプロセスが世に出ることの叶わなかった幻の女優(ここが『抱擁のかけら』の肝かもね)を通して描かれる。アルモドバルの偉大なる達成に乾杯!


追記*ペネロペが実生活のヌード(映画内)より、あくまでスクリーン上の服を着ているときの方がキュートでセクシーなのもこの作品の肝だと思います。個人的には早くも今年のベストに入る作品です。なにかしらモノ作り(モノ作りとはもちろん人生のことだ)に悩んだりしている方は是非。ふたたび、アルモドバルの達成に。乾杯!