『インビクタス』(クリント・イーストウッド/2009)


地元シネコンレイトにてイーストウッド新作。元来早撮りとして知られるイーストウッドの近年の画作りが簡単に撮られている(ように見える)ことはよく指摘されることだけど、『インビクタス』の撮影はその極みだと断言したくなるほどウソみたいな軽さに貫かれている。構図へのこだわりを捨てるかのような撮影は、演出のポイントとその速さにのみ機能しているように思える。冒頭の「ラグビー=白人」と「サッカー=黒人」の居住区域を挿んだストリートを行くマンデラの演出から、その機能的な速さは際立っている。『インビクタス』は市民革命を描くという点で『チェンジリング』後の世界だという見立てがまず可能だろう。


しかしマンデラ釈放以後=革命以後の世界の様相に奇妙な捩れが生じているのは、『インビクタス』が実際に血を流す「闘争以後」の物語だからという文脈ではちょっと収まりが悪い。実際マンデラモーガン・フリーマンは『チェンジリング』のアンジー以上に何もしていない。記憶に残るのはスタジアムでの民衆への挨拶ばかりだ、と言ったら言い過ぎかもしれないけど、たとえばマット・デイモンマンデラの部屋に招かれるシーン、会談後のマット・デイモンは「あんな人は初めてだ」なんて感想を放つわけだけど、その言葉の説得力の根拠はマンデラモーガン・フリーマンの超越的存在に拠ってのみ機能しているように思える(え、え、ちょッ、ホントですか!?とツッコミを入れたくなる)。たとえ家庭に悩みを抱えている革命家=人間な描写があったとしても、あくまでマンデラモーガン・フリーマンは物質的存在をスルリとすり抜ける透明な英雄として描かれている(実際マンデラの身体が透明自在なことを示すシーンもある)。


南アフリカ共和国で行なわれるラグビーのワールドカップ。スタジアムの歓喜(ひとつになる=ナショナリズムの発露と裏表の関係にある)を余所に、インタビューに答えるキャプテン=マット・デイモンは此処にいる6万人の観衆ではなく4600万の国民に向けてスピーチをする。続いてストリートの歓喜が画面に映るとき、この市民革命が世界時計のような様相を帯びていることを知る。ひとつの内部と複数の外部を私たちは同時に目撃する。マンデラモーガン・フリーマンがこの歓喜の暴動に静観を決め込むとき、内部と外部の様々な意味の高低差は消え、同時に市民革命の「私性」への問いが一遍の詩と共に浮かびあがる。ここはまだ革命の過程。年内に公開されるはずの『ヒアアフター』(超常現象スリラー?)での次なる展開に期待が高まる。


追記*日韓W杯における日本代表勝利の渋谷の歓喜を警察が止めたことを思い出した。それは逆説的に歓喜の暴動を「ひとつ」にしてしまうことだったなぁと残念に思ったのだった。