『CLARO』(グラウベル・ローシャ/1975)


ジュリエット・ベルト特集その4。ジャン=リュック・ゴダールの『楽しい知識』(1969)で共演したジャン=ピエール・レオが『七つの頭のライオン』(1970)に出演したのと入れ替わるように、ジュリエット・ベルトはグラウベル・ローシャの作品に参加している。フィクションの運動/存在とドキュメンタリーの運動/存在を引き算や足し算によって「物語」へ向かう洗練さとは程遠い、「映画の記録」としてこちら側に投げかけるローシャの映画は、おそらく多くの人が思い描くマスターピースという言葉の範疇から大きく外れる。この極めてラジカルな作品『CLARO』に、ジュリエット・ベルトは単身で乗り込むだけでなく、プロデュースまで買って出ている。そして『CLARO』にはのちに自身が監督することになる傑作群の胎芽が既に準備されている。ここには『NEIGE(雪)』『CAP CANAILLE』『HAVRE』で一貫して描かれた多人種による「実験の国」があるだろう。さらには自身の属性/身体を超えるための「トランス」というテーマを見つけることができるだろう。このことが示唆するのは、一人の女優の全仕事を検証することの「女優作家主義論」へ向けた大きな可能性にほかならない。



ゴダールのユーモアから洗練さだけを取り除いたかのような異形の傑作『七つの頭のライオン』の冒頭でオペラが爆音で鳴り響くように、音が割れるほどブーストした音声=ノイズで『CLARO』ははじまる。ジュリエット・ベルトが何者かに背後から襲われるタイトルバック(上記画像参照)に続き、ローマの街頭で黒いマントを着たジュリエット・ベルト(魔女のようだ)に向けて何者かが呪文のような歌を投げかける。その呪文にデタラメに呼応してみせるジュリエット・ベルトが、次第にトランス状態になり、路上をコロコロと転がりながら、ときに何者かに執拗に蹴られ、飛び越えられ、やがて起き上がると、彼女は生まれ変わる。今度は自らが歌い手となって呪文を空に放つように「変身=トランス」しているのだ。この一連の変化が流麗さとは無縁な移動撮影の長い長いワンショットを軸に綴られる。このときの撮影はガタガタではあるが、所謂手持ちカメラのブレブレとは一線を画す。カメラはジュリエット・ベルトが次に何をしてもいいような距離から運動と共に次第に接近していく。まるでトランスしていく身体と並走するようなカメラには「上昇」の錯覚さえ起こす不思議な高揚感がある。極めて即興性が高く、美しい。くわえて『CLARO』では、全ての台詞、というより音声、がアジテーションのようにこちらを刺激する。これ以後の上演、というより儀式と言ったほうがふさわしい数々の舞台(中段の画像参照)においても、カメラは集団による即興演技(狂気の宴、狂気の復権)に徐々に接近していく。このことはカメラを引いたときに見える光景と過剰に接近したときに見える光景の相違を意識させられる。絵画に描かれた対象の細部をクローズアップしたときに見える筆致や色彩の新たな発見というか。それが様々な視線のケイオスによる即興の運動だということが『CLARO』の記録を孤高へと導く。ローマの広場に集まる運動を俯瞰で広く捉えたときの光景と、集団の細部、さらにジュリエット・ベルトというフィクションの存在が集団に紛れ込んでいること、そこに映画の撮影クルーが入っているということ。映画のために集められたわけではない人たちがジュリエット・ベルトとカメラを好奇の目で見ているのがハッキリと映り込んでいるのだ。ここには複数の「視線」が衝突している。



イタリア語で歌われる革命歌「インターナショナル」に至るまで『CLARO』の音声は映像以上に混沌を極める。フランス、イタリア、アメリカ、コンゴと多人種による音声の実験。冒頭の呪文はオペラとミックスされいつの間にかフェイドアウトする。集団による即興的な運動がバレエに代表される西欧的なディシプリンの運動とかけ離れているにも関わらず、それらのバックにはオペラやクラシック音楽が爆音で鳴り響く。女装をした男が股を開くとジュリエット・ベルトが天使の像を抱え、男性と性交させるような身振りを繰り返す祈りの儀式がある(何故かクロソウスキーを想起した。ヴィジュアルがロベルトぽくて)。この背徳的で呪術的な身振りのバックにはオペラが流れていた。つまりアフリカ人のパーカッションを取り入れた「悪魔を憐れむ歌」の逆を行ってるわけだ。『CLARO』はめまぐるしい映像と音声の衝突によって最終的に多重オーバーラップの世界に導かれる。ジュリエット・ベルトが花びらを食べるクローズ・アップ(下段画像を参照。美しい!)以後、多重オーバーラップによる文字通りの「トランス」は、世界の現状、世界の地図を宙吊りのまま私たちの前に提示する。そこには闘いと祝福を同時に奏でるようなファンキーなブラジリアングルーヴが鳴り響いていた。


追記*『CLARO』の後半、ジュリエット・ベルトが分裂してもう一人のジュリエット・ベルト(そっくり)と行動を共にしていたことは興味深い。ところでジュリエット・ベルトのクローズアップがものすごく少女だった。この作品のジュリエット・ベルトは美しすぎます。


追記2*ジャン=マリー・ストローブゴダールウォーホールに関する言及あり。無知で分からないのですがストローブやゴダールの「シネマニフェスト(cinemanifesto)」ってなんだろう?直訳でいいのかな?ジュリエット・ベルトが映写機の側で話す会話。「ゴダールのシネマニフェストを持ってる(知ってる、かな?)」って。


追記3*ところでつい先日のエジプト革命をとらえたアルジャジーラの放送は、映像と音声に関わる現代の映画へ向けた極めてアクチャルな問題を提起していたと思う。そのカメラの置き方、切り取り方、音声の拾い方において。