『ヘミングウェイ&ゲルホーン』(フィリップ・カウフマン/2012)


今年のカンヌで上映されたフィリップ・カウフマン待望の新作は、『存在の耐えられない軽さ』や『ヘンリー&ジューン』といった傑作を撮ったこの作家が、ニコール・キッドマンという稀代の女優を演出することで、演出家としての経年と経験の賜物とも思える、画面の剥き出しの官能性を再び獲得する。たとえば『存在の耐えられない軽さ』のジュリエット・ビノシュが、瞬発的なアクションで無邪気な小動物のようなエロスの変化を体現していたように、『ヘミングウェイ&ゲルホーン』のニコール・キッドマンは、まるでリタ・ヘイワースのような謎めいた大人の女の影から、やがて二十歳くらいの女の子(本当にそう見える!)が真剣な恋に落ちたときの表情さえ見せ始め、回想シーンにおける老けメイクの老女役に至るまで、その変化のスピードが、スペインを舞台にした、フラメンコの情熱的なリズム、そしてダンス!、そのめまぐるしいエモーションのスピードと並走するように刻まれている。『ヘミングウェイ&ゲルホーン』とは、まず画面のエモーション、その官能的な狂おしさに関する映画だ。



フィリップ・カウフマンはこの狂おしさを、物語と演出のめまぐるしい仕掛けによって展開させる。文芸物かと思いきや、突然西部劇の風景に、いつの間にか戦争映画の銃撃戦に、いつの間にか官能的な性の遊戯に、果てはいつの間にか罵り合う男女のメロドラマに。ニコール・キッドマンが、スクリーンに投射された記録映像の前で影になり、やがてスクリーンの中へ入ってしまう(!)魅惑的なシーンから、カウフマンは、ジャンルを自在に横断しながら、「撮る」という行為によって、対象が所属している境界を融解させていく。『ヘミングウェイ&ゲルホーン』では、記号的・示唆的な言葉として、"shoot"という言葉が何度か呟かれるが、この言葉は「撮る/撃つ」のみの意味にあらず、さらに多面的な言葉の広がりを持っている。「撮る」ことが「視る」ことと密接な関係にあるという原理を踏まえた上で、この作品における「視る=shoot」にふさわしいのは、「(心を)捕らえる/囚われる」という言葉だろう。アーネスト・ヘミングウェイが物語を「書く」という行為さえ、ここでは"shoot"であり、それは体験主義だったこの情熱的な作家の人生を描くがゆえに、強度を持っている。また、記録映像のアフレコシーンで、ニコール・キッドマンがいろんな物を使って効果音を入れるシーンや、フィルムの1コマ1コマが曝されるシーンは、映画を構成しているものの一つ一つを解体していくという意味で、これは同じく"shoot"の問題であり、それこそがまさしく映画における狂おしさの問題として提示されるだろう。フィリップ・カウフマンと二コール・キッドマンの最高のコラボによる『ヘミングウェイ&ゲルホーン』は、「"shoot"=まばたき」の一つ一つによって重ねられた「捕らえた/囚われた」集積の経緯を、つまり愛の問題として提示しているのだ。素晴らしい作品!!!


追記*TV映画といえど、そんな撮り方は微塵も見せないカウフマン。父コッポラの『テトロ』や『ヴァージニア』とはまた違う方法で、「映画」そのものへ向けた作品なので劇場で上映されたら最高だ。


追記2*以下、『ヘミングウェイ&ゲルホーン』をモチーフにしたファッション誌のフォト。ニコール・キッドマン、かっけー。