『恐るべき子供たち』評
CINEMOREさんにジャン=ピエール・メルヴィル×ジャン・コクトー『恐るべき子供たち』評「鉱石の雪玉」を寄稿させていただきました。
とても端整な作品なので、書きながら心が整っていく不思議な気持ちになりました。レオス・カラックス『アネット』公開前のタイミングで、この作品を復習できたのは本当によかったです。メルヴィル=コクトーの仕事は、その細部に宝の山がざっくざくです。発見だらけでした。
この作品の室内シーンのほとんどが真夜中に撮られたというエピソードが、とても好きです。単にメルヴィルが昼間は寝ていたいという理由だけで、夜中に撮影が行われたらしい。撮影現場に遊びに来たコクトーは、眠気に耐えられず、その場で寝てしまったのだとか。真夜中に撮影する必要性はないのだけど、そこにこそ、この作品の夢遊病的、夢魔的な「魔術」の一端を感じます。
書き出しに引用していますが、ジャン=リュック・ゴダールのこの言葉が、胸に命中しました。
「かりに演出が視線だとすれば、編集は心臓の鼓動である」 (ジャン=リュック・ゴダール)
ゴダールは、「演出と編集」の関係を「メロディとリズム」の関係にも言い換えています。
『恐るべき子供たち』で、とりわけ素晴らしい主演のニコール・ステファーヌのプロデュース業にも少し触れさせていただきました。ニコール・ステファーヌは事故がきっかけで俳優業からプロデュース業へ移ります。プロデュース作品には、恋人のスーザン・ソンタグや友人のマルグリット・デュラスの映画作品があります。デュラスの『破壊しに、と彼女は言う』については、筋からずれてしまうため評に書けなかったのですが、デュラス映画の真の出発点として重要な作品です。長編デビュー作『冬の旅・別れの詩』も大傑作ですけどね。
お時間あるときによろしくお願いします。