『メーヌ・オセアン』(ジャック・ロジエ/1986)


ユーロスペースジャック・ロジエのヴァカンス」にて『メーヌ・オセアン』。フランスの国鉄へ猛ダッシュ駆け込み乗車をする異邦人デジャニラ=ブラジル人の”ロスト・イン・トランスレーション”が次々と人を引き寄せる。裁判所で漁師プチガの弁護をするリディア・フェルドの演説が、ちょうど「言葉遣い」のヒエラルキーの問題を提唱していたように、デジャニラを磁石としたこの有無を言わせぬ巻き込み型喜劇、引力の喜劇は、国籍や職業を越えたあらゆるヒエラルキーの緩やかな融解を描いているかのようだ。この作品のハイライトである公民館の演奏会におけるダンスシーン。サンバのリズムとは裏腹に過剰なほど緩やかに流れる画面の夢幻なるタイム感こそが、デジャニラという磁石によって集められた余所者との融解の時間であり、この時間が夢であるからこそ必ず終わりはやって来る。検札長が唄う「サンバの王様」がワインの回ったときにしか出てこない幻のフレーズだったように、確実に掴んだはずの融解の奇跡は再びスルりと手元から離れていく。置いてきぼりの「笑い」が再度画面に浮上するとき、検札長を捉える決定的なロングショットの連続に、この「笑い」との緩やかな和解が画面に滲んでいるようにも思え、ロジエのすべての作品がそうであるように、とても幸福な気分に包まれた。あのとびきりに素晴らしい『オルエットの方へ』に負けないくらいの傑作だ。



デジャニラを磁場として偶然の軌跡を描きながら集まる登場人物は、”幻の曲”「サンバの王様」を奏でるために集められた楽器や音符のように思える。楽曲に欠けているピースを集める旅というか。公民館における演奏会のシーンが刺激的なのは、音楽が生まれる過程をじっくり描いてるからで、劇中の「ストーンズだって楽譜が読めないんだ」という台詞から、ゴダールの『ワン・プラス・ワン』を思い出した。「悪魔を憐れむ歌」がどうにも上手く纏まらないところへ、アフリカ人のパーカショニストが来てカチッとキマる、あのプロセスである。緩やかな夢幻なる音楽と酔狂の時間は融解のカタルシスを呼ぶ。アンチ・カタルシスというよりは、オルタナティヴなカタルシス。同時にこの一連のシーンにはルノワール→リヴェットの系譜を感じる。集団におけるヒエラルキーの崩壊と「魔術」という点において。不気味にそびえ立つ灯台と逆光のデジャニラはどこか魔術的だ。また、リディア・フェルドは一連の出来事の秘密の策士のようであり、ゲームの推移を見守る、この映画でもっとも解き放たれた自由な存在だ。


船で乗り継ぐ(!)検札長の濃霧に包まれた大海の彷徨。ヴァカンスは終わらず、ここはまだ旅の途中。幻の楽曲「サンバの王様」だけが、やさしさとも憐れみとも虚しさともとれない、大きな和解の微笑みを投げかけてくれる。素晴らしいッ。


追記*「オレがマルセル・プチガだー」には笑った。


アデュー・フィリピーヌ』の再見をもって長編はコンプリート。あまりにも魅惑的だったジャック・ロジエ特集。夏の終わりにアンコール上映を熱望します。サンクス!