『トルチュ島に漂流した人たち』(ジャック・ロジエ/1976)


輸入DVDでジャック・ロジエ。大盛況の内に幕を閉じたジャック・ロジエ特集。こちらはフィルモグラフィー上『オルエットの方へ』と『メーヌ・オセアン』という二大傑作(というよりロジエは傑作しか撮っていないのだろう)の間に位置する作品。神秘的なアフロの女性が描かれた絵画が闇に浮かんでは消えを繰り返すファーストカットからグイグイと妖艶な画面に幻惑される。が、過激なるロジエの映画が、既知なる「スゴイ映画」から遥か遠い「孤島」にあることはすぐに証明される。一体ロジエ以外の誰がこんな映画を撮れるだろうか。いや、誰も撮れないばかりか、もはや真似したいとすら思わせない作品なのである。”「あいのり」度”は他のどの作品よりも高く、分かりにくさとは無縁。にも関わらず、この作品は過激さの先端を走る。劇中のロビンソン・クルーソーを名乗りジャングルを切り拓くツアー客一行に倣うように言えば、これは映画そのものの未開の地を開拓しているような作品なのだ。映画の/旅の/ヴァカンスの「冒険者」としてのロジエの本質が最もよく表れている作品だといえる。



次作『メーヌ・オセアン』が緩やかな「他人」との融解だったのに対し、こちらは遭遇によるやむを得ない融解といえばよいか。環境の変化による「他人」や「風土」への感化の力がより強く働く。ヴァカンス気分でパリを離れた旅行者は、この旅行が思わぬ過酷な事態へ展開することに半ば強制的に慣らされてしまう。旅行客は険しい山を登りジャングルを抜け荒波を渡航する。何かに憑かれた狂人のようなピエール・リシャールの独断によって、見ているこちらが二度と戻れないんじゃないかと不安になるほど過酷なヴァカンスが展開される。ピエール・リシャールが女性客のバックとお金を無断で海に投げ捨てるシーンや、荒波にダイブするシーンは、狂人を目の前に思わず頬が引き攣ってしまうようなブラックな笑いだ。船上にはトルチュ島の原住民も同乗し、絶えず不思議な音楽を奏でている。透明な存在の彼の奏でる音楽と2匹の山羊の鳴き声が旅のBGMになる。旅の冒頭、バスの中に雪崩込んで来た黒人の地元民が急にサンバのリズムをとりはじめバスの中がパーティーになる図があるのだけど(ブラジル代表のドキュメンタリーとかでよく見るような光景だ)、パリから来た客が感化されて一緒に歌いだす様が笑える。この半ば強制的な感化は船の上でも人の無意識を侵していく。不可避なBGMによる緩やかな洗脳。


ロジエの映画では夜のシーンがとびきり素晴らしいと思うのだけど、この作品も例外にあらず、ほとんど恐怖映画のような夜が何度かやってくる。たとえば夜の海を一人で見ているときの不安、自分より遥かに大きいもの=自然という大波に体ごとさらわれてしまうんじゃないか、という恐さによく似ている。忘れた頃に要所要所で挿入される素晴らしいロングショットの数々には、こういった宙吊りにされた不安の魔力が宿っている。二度と帰れないかもしれない不安。映画の新しさへ向けた冒険、挑戦へのリスク。とはいえ、このリスクにはとんでもなくバカバカしいオチが待っているわけだけど。


『メーヌ・オセアン』のベルナール・メネズは仕事に間に合うため幾度も船を乗り継ぎ沖を歩いていったわけだけど、ふと彼がちゃんと家に帰れたのかどうかが気になっている。もしかすると途中で別の人生を始めたのかもしれない。その意味で『トルチュ島に漂流した人たち』の「漂流」はロジエのフィルモグラフィーを1本に繋ぐ位置を確実に占めている。トンデモな過激さとバカバカしさが同居した大傑作だ。


追記*劇中に流れるのはドリバル・カイミのスタンダード「Saudade da Bahia」。カフェ・ア・プレミディファンとしてはギミックスやリル・リンドフォッシュのラララ多幸感に鼻血カヴァー「Boink!」が定盤。何度聴いたか分からん。死ぬほど好き。

ブラジリアン・サンバ

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ボインク!

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