『勝利を』(マルコ・ベロッキオ/2009)


イタリア映画祭2010で体験することができたマルコ・ベロッキオの新作『勝利を』の全ての画面/音響が放つ、熱情というより激情の爆弾投下に、未だ言葉が出ない。これほど打ちのめされる映画体験をしてしまった後、一体どうやって映画と接していけばよいのか、途方に暮れてしまうくらいの仰天する熱量がここにはあった。アメイジングなフィルム。恐怖すら覚える。前日に体験した『母の微笑』が巨匠の余技として霞んでしまうくらいの。絶対的な処女作『ポケットの中の握り拳』におけるルー・カステルの叫び、何もかもを消し去る爆音のオペラが開巻からラストまで、延々に続いているような映画なのだ。フリッツ・ラングのサイレントが持つ脅威が、力強く現代に更新されていく様に、映画の墓標と映画の再生をみる。ベロッキオの勝利/ネクストというだけに留まらない、映画の勝利/ネクストすら感じさせる快作なのだ。このような大袈裟な賛辞を送っても到底本作には追いつけない。



『勝利を』は映画の過剰さに貫かれている。ムッソリーニのほとんど瞬きをしない眼や、女優が素晴らしい、という映画の原理に関わる根源的なことを思い出させてくれる決定的な女優の存在、そしてこの「女優」というトピックを古典映画から未来に逆行する走馬灯のように、過去と未来をゴチャゴチャにして懐かしむ色鮮やかな万華鏡のように、ほとんど前衛的なまでに前景化させる画面展開。ムッソリーニの息子がムッソリーニを物真似するシーンに、画面のなかで演じるということ、パフォーマンスするということの「政治」をみる。『勝利を』はそのことに対する映画の勝利を高らかに宣言しているのではないだろうか。


あらゆる書類を投げ捨て燃やし尽くす革命と、ヒロインが決して届かない手紙を投げ続ける雪のシーンは、高貴な尊厳と美しさにおいて符合している。そしてムッソリーニが病院のベッドから見上げた映画(夢のようだ)と、ヒロインが感動に震える『キッド』の野外上映。無声映画伴奏の暴動。打ちのめされること、ココロが震えることの感化がスクリーンに対峙したこちらにダイレクトに跳ねっかえる。この魂の熱量に未だ心が震えている。


追記*スクリーンに向かって敬礼する群集を映写の光に明滅するヒロインが見下ろすショットは、「女優」というテーマを考えるとき極めて興味深い。『勝利を』は本当に劇場で体験することにこそ意義のある作品だと思う。劇場があたかも揺れ動いているような眩暈を起こした。体感する映画。映画祭のみの上映で終わらせてはならない。


追記2*『チェンジリング』を想起させる不条理な精神病院のエピソード。法政大学のベロッキオ上映会で赤坂大輔氏が言及していた精神病院を舞台にしたベロッキオのドキュメンタリーを夢想する。ヒロインの周りをヒラヒラと舞うバレリーナが素晴らしい。


追記3*『勝利を』が何に勝利し何に勝利しなかったのか、もっと言えば何に支配され何に支配されなかったのか。アジテーション的に表示される激烈な文字と共に、何故敢えてプロパガンダ映画のような手法が取り入れられているのか。この揺さぶりを追記1のシーンや、最終的にパロディの域に達する物真似シーンと共に考えることが重要に思える。