『コロンブス 永遠の海』(マノエル・ド・オリヴェイラ/2007)


岩波ホールにて『ブロンド少女は過激に美しく(仮題)』(←スゴイ邦題!)の公開も楽しみなオリヴェイラの近作。齢101歳(撮影時は99歳?)のオリヴェイラはデジタル撮影を択んだわけだけど、冒頭から思いっきり「フィルムの画面」のような、いつもと変わらぬ堂々たる画面展開が炸裂するや、早速こちらを戸惑わせる。青山真治氏のツイートに触発されて言うならば、所謂「フィルムの画面」というモノ自体に「フィクション」の疑いがかけられていると言うべきか(注*氏のツイートは『コロンブス』や「フィルムの画面」と直接関係ありませんが)。歴史(Histoire)=物語(Histoire)=フィクションの図は、例えば夜の霧をフィルターを使って再現するといったシーンのように、映画の「ウソ」を敢えて前景化させるところに表わされているようだ。また、マノエルとシルビア夫婦の旅が、過去と現在といった二つの時制で描かれるにも関わらず、ここではフィクションであるが故に「時間」すらも消失へ向かう。フィルムのフィクション性とデジタルのノン・フィクション性を揺さぶると同時に、ノン・フィクションがフィクションに回収されることに当然のように自覚的なオリヴェイラは、ここで最愛の妻と共にフレームに収まることを択ぶ。100歳を迎えんとする時に。『コロンブス』は「旅する映画」であると同時に「私映画」の中のフィクションである「私」の行方を探る映画のように思える。



マノエル&シルビア夫妻が旅の果てに発見したのは、地平線の彼方に消えようとしている歴史や物語の行方であると同時に、夫婦間の感情の姿形の行方だろう。不可視なモノの発見。終盤、案内人が夫妻にかける台詞、「うしろを見てご覧なさい」に恐怖を覚えるのは、冒頭から不可視な存在として全てを見守ってきた女性がついに「発見」されてしまうかもしれない、という緊張が走るからだ。不可視なモノはついに妻の声によって発見される。歴史や物語や感情の行方は「言葉の発見」へのオドロキとヨロコビの歌として彼方に放たれる。


「私(たち)」の感情の行方は、美しい空や美しい波の彼方に確かに在る/在ったのだろうか。その歌声と言葉の美しさが存在の輪郭をなぞる。傑作だと思った。


そして最新作『The Strange Case of Angelica』(英題)では、なんと「シルビア」が登場するというオドロキ。『シルビアのいる街で』(ホセ・ルイス・ゲリン)の、あの女優がオリヴェイラに招かれた。今からすごーーーく楽しみでしかたない。