『終わった会話』(ジョアン・ボテリョ/1982)


ジュリエット・ベルト特集その6。ジュリエット・ベルトは長編処女作『NEIGE(雪)』を撮った翌年ポルトガルに渡りジョアン・ボテリョの作品に出演している。マノエル・ド・オリヴェイラも出演している『終わった会話』は詩人フェルナンド・ペソアとマリオ・デ・ サ=カルネイロの間で交わされた往復書簡の朗読を軸に、メリエス的ともいえる夢魔的な映画空間が展開される傑作だ。さて『終わった会話』からジュリエット・ベルトの女優作家論を引き出すとしたら、本作が露わにする「演舞のエクリチュール」にほかならないだろう。『終わった会話』におけるエクリチュールは、ひとりの映画作家が指揮する作品への権力を分配すること、消失させることに向かっている。「リカルド・レイス」や「アルヴァロ・デ・カンポス」など複数のペンネームで詩を残したペソアが「著作を持たない詩人」だったことと符合させるように。『終わった会話』における問いとは、「作家による作品」という概念そのものに対する問いなのだろう。



『終わった会話』は大学の研究室のような空間(ここでも背景のスクリーンにミステリアスな静止画が投射される)で教授らしき人物の、ジョルジュ・バタイユ『死を前にしての歓喜の実践』を読みあげるような独演のイントロを経て、フェルナンド・ペソアが病院で死の床につくシーンから始まる(ここでペソアを看取る神父を演じるのがマノエル・ド・オリヴェイラ)。ペソアの死後、カメラは流麗なパンニングにより窓を捉えるが、これ以後、窓の外の景色はすべて絵画や写真で埋められてしまう。同じく室内の人物が立てる音以外の外から聞こえるオフの音には不自然な加工が加えられている。ひっきりなしに響く馬車の音が印象的だ。また、ペソアの残された詩や日記の朗読をする現在時制(?)の俳優をとらえる手法が興味深い。なかでも朗読をする俳優をレコーディングするシーンの撮影、という三重の入れ子構造による「現在」に注視したい。ここで暴かれるのは録音や撮影による「記録」のエクリチュールの更新だからだ。「記録」は音声や映像によって書き換えられ、新たな命を吹き込まれると同時に、元の作者さえもが新たな「記録」によって更新されてしまう。『終わった会話』ではこの朗読を複数の俳優が演じる。ということは、そこに複数の新たな「作者」が生まれる。書かれたノートが河に流されるシーンが示唆的だ。



「作者の死と再生」というテーマは「演舞」にも向けられている。『終わった会話』において舞台で踊る文字通りの「演舞」シーンは2回ほど出てくるが、1度目は女優の溺死によって舞踏の終わりを告げ(2段目の画像参照。炎に囲まれた池に女優が浮いている!)、2度目は市井の庶民による音楽とダンス(美しい)に退屈したジュリエット・ベルトの登場によって終わりが告げられる。1度目の舞踏が女優の身振りによるエクリチュールとその死(自死)だとしたら、2度目は身振りによるエクリチュールの再生だ。ダンスに退屈したジュリエット・ベルトは、自らが詩人のインスピレーションの源泉(ミューズ)になることを買って出るのだ。ここから本作はアメリカのクラシカルな犯罪映画のような急展開を見せるが、ここでの身振りが舞台上の演技であるかのように、俳優の身振りによる説話に賭けられているところが素晴らしい。俳優の身振りによる「記録=作品」が新たに生成されるのだ。この瞬間、映画の本筋/作者を忘れる。映画作家とスタッフと役者陣は、エクリチュールの忘却と発見という名の元で等価の関係になるだろう。すべては終わりの始まりへと向けられるだろう。再びジュリエット・ベルトに話を戻すなら、このことは『HAVRE』において、すべての人に均等に与えられたあの感動的な「再生/出発」のラストショットを思い出さずにはいられない。



追記*ジュリエット・ベルトが詩人を理解できないという展開は「作者と他者による演舞」という、この映画のもう一つのテーマを表わしている。


追記2*そもそも『セリーヌとジュリー〜』(脚本にクレジット)にしたって『アウトワン』(脚本自体がノン・クレジット)にしたって、ジュリエット・ベルトという人は作品という枠組みの中に自身の身振りによって新たな「作品」を創造してきた女優だ。


追記3*アントニオ・タブッキフェルナンド・ペソアについて書いた本は、本作に近いのかもしれない。是非読んでみたい。

フェルナンド・ペソア最後の三日間

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