『映像表現の地平』

映像表現の地平 (中央大学人文科学研究所研究叢書)

映像表現の地平 (中央大学人文科学研究所研究叢書)

ちょっとばかり前のこととなりますが、日頃からお世話になってる大久保清朗氏(id:SomeCameRunning)のご厚意(多謝)で『映像表現の地平』を送っていただきました。当ブログの記事も『ヴィオレット・ノジエール』で更新が止まっているという、実にいいタイミングで紹介させていただきます。キング・ヴィダー論〜堀禎一論まで多くの興味深い論考が並ぶ中、個人的にはやはり大久保氏の『ヴィオレット・ノジエール』論(『クロード・シャブロル、あるいは逆説の日常』)に心からグッともっていかれましたね。黒服のヴィオレットに対する熱狂はいまだ覚めやらず。大久保氏自身がヴィオレットに魅せられていることがダイレクトに伝わってきます。シャブロルだけでなく多くの芸術家が魅せられたヴィオレットという霊感、引力。だからこの論考にはどこかミステリアスで危険な魅力があります。以前キネ旬に掲載された『シルビアのいる街で』に関する文章でも感じたことですが、氏の膨大な下調べに基づきながら対象に迫っていく(映画)探偵小説のような文章はドキドキさせるようなスリルに溢れています。且つ、ここからが大事なのですが、この論考が本当に面白く刺激的なのは、情熱を持って収集されたはずの膨大な資料すら、文章の「存在・無」に導かれるような、つまり、ヴィオレットという実像がフィルムの開巻から終幕〜本当に存在したのかさえ分からなくさせる〜一回性のフィクションに賭けられているのと同様の体験を映画論によって可能にしているところです。『ヴィオレット・ノジエール』という傑作に打ちのめされた忘れがたい体験を、この論考によって2度3度と繰り返すことができる、それは一言で言えば熱病です。しかも存在しなかったかもしれない対象に対する熱病なのです。それは私たちの日常とよく似ています。仮にどんなに身近にいようと、その人が本当に存在するのかどうかを知ることは常に危険なことなのかもしれません。好きな文が多いのですが、とりわけグッときた文の引用により、この感想を閉じます。


ヴィオレットの復権が叶った時、彼女の弁護士だったヴェジンヌ=ラリュは「もうヴィオレット・ノジエールはいません!」と述べたという。ヴェジンヌ・ラリュにとって、それは彼女の汚名がついに拭い去られたことを意味していただろう。だが実のところ、その罪過とともに拭い去られたのは彼女の全存在ではなかったか。


ヴィオレット・ノジエール』の日本語字幕付きフィルム上映を強く願います。ヴィオレットの「肖像」はきっとフィルムであることにこそ意味があると思うので。


追記*同収録の佐藤歩氏による『再考キング・ヴィダー 創造的現在』で論じられているヴィダーの遺作ドキュメンタリー『The Metaphor』(1980)が気になって仕方ない。伊藤洋司氏による『監督堀禎一』は久々に『憐』を見直したくなりました。近々再見します。