『TWO LOVERS』(ジェームズ・グレイ/2008)


輸入DVDにて日本公開が待たれて久しいジェームズ・グレイ『TWO LOVERS』。ホアキン・フェニックスグウィネス・パルトロウ&ヴァネッサ・ショウという豪華共演陣はむしろ08年の暮れに日本公開された傑作『アンダーカヴァー』より入りやすいと思っていたのだけど、何故かスルーされたまま。日本でも人気の高い天才俳優ホアキンは本作をもって俳優業を引退。今年のヴェネチア映画祭でラッパーに転身した彼のドキュメンタリー(監督はケイシー・アフレック)が上映される。今のところジェームズ・グレイホアキン・フェニックスの最新作となる本作のエンドロールの終わりに「THE END」のマークが殊更長く刻まれるのは、この監督と俳優の奇跡的な共犯関係の終わりを告げているのだろうか。こちらとしてはそうでないことを願うばかりだ。というのも、この美しいラストショットを持つ『TWO LOVERS』という作品は、ホアキンありきの映画だからだ。ホアキンでなければ、このラブストーリーはウソ臭くなってしまう。



08年に体験した2本の傑作でブロンディの「ハート・オブ・グラス」が使われていたという偶然の共振は記憶に新しい。現在公開中の『シルビアのいる街で』と『アンダーカヴァー』のことだ。『TWO LOVERS』を見て最初に驚くのは08年に制作された本作が「窓枠の映画」として『アンナと過ごした4日間』と共振していることだ。正しくセカンドチャンスの「ボーイ・ミーツ・ガール」を描いた本作において『裏窓』的であり『二十歳の恋』的でもある窓枠は、其処に窓枠を作ることで新たな映画内フレームを作り出したスコリモフスキによる女優のピンナップ化に似ている。互いの部屋の窓越しから話すホアキンとグウィネスの会話が(ホアキンがグウィネスを見上げる位置の関係性が興味深い)、その視覚的距離にも関わらず、携帯電話によって声が耳元へ囁くように届いてしまう、というところが面白い。グウィネスはホアキンの耳元で笑う。ここの音設計の見事さ。また窓を開けるとグウィネスの部屋からジャズが聞こえてくるシーンの開放性や、ホアキンがオペラを響かせるシーンの屈折した切実さは、その音が決して彼女に届かない/彼女は別の場所で同じ音楽を聴いている、という窓の開放が逆説的に閉じ切った内なる空しさと共振する。


写真家であるホアキンの作品がモノクロであることに注視したい。この作品で唯一のカラー写真は逃げていった婚約者と小さい頃のホアキンの写真だけだ。逃げ去る恋と少年性だけがホアキンの現在の視界=窓枠だとするならば、この枠に支配されたホアキンの切実さは痛い。ホアキンにとっての支配は動かざるもの=家=母だろう。母親役のイザベラ・ロッセリーニの視線(!)はホアキンを沈黙の内に支配する。そこに父権的な行使が皆無なだけに、それは逃れがたいものとなる。『TWO LOVERS』は家=母なるものの枠組みの物語という意味で、『アンダーカヴァー』と対の物語となる。


イザベラ・ロッセリーニホアキン・フェニックス→ヴァネッサ・ショウといった三角形の視線の軸で描かれる「ボーイ・ミーツ・ガール」の非情さが素晴らしい。


追記*ホアキンブレイクダンスを繰り広げるシーンは楽しすぎる!


追記2*『アイアンマン』シリーズ(1も2もスバラシイ作品です)のヒロイン役といい、やや年齢を重ねたグウィネス・パルトロウはとても魅力的だ。