『母の微笑』(マルコ・ベロッキオ/2002)


イタリア映画祭2010にてマルコ・ベロッキオの旧作『母の微笑』。原題を「宗教の時間」。手前に座る主人公(画家)の奥さんを跨いで向こう側の窓枠内で子供(少年)が発狂したような叫びをあげる冒頭。「僕の頭から出て行け!」。母に抱きかかえられることで子供は安静を取り戻すわけだけど、ここに既に『母の微笑』の主題体系がさり気ない形で表されている。無神論者が如何に「(聖)母」から逃れられるか。「父子関係/父殺し」ではなく「母子関係/母殺し」のテーマ。主人公が息子に聞かせた台詞、”人間は永遠に年をとらない。人間は永遠に死なない”は、イコールで(聖)母なるものの尊大さと、其処から逃れることの困難を表しているかのようだ。(聖)母は具象されぬまま画面を支配する。


エピソードは支配される。主人公は得も言えぬまま事態に巻き込まれる。”母譲りの微笑”(この微笑が事態を困難にさせる)の、誤読/正読を超越した反復もさることながら、強大な音による支配が主人公を包み込む。偉大な画家として招かれ盛大な拍手を浴びる(異常に強調された音の使い方!)シーンや、唐突なオーケストラの爆音に表されているように、主人公を強引に導く音の塊が強烈だ。実母を殺した兄が「神のクソったれ!」と発狂の叫びをあげ、思わず主人公が抱擁してしまうシーンの強引にして強烈な音の響かせ方は、禍々しくも強烈な感動を呼ぶ。


スローモーションによる時間の止め方が興味深い。夜の街の車内、黒服の4人がフレームに収まる(フィルムノワールのように美的に痺れるショット)シーンでの十字切りに、スローモーションがかかったり、スチール撮影で女の胸元にナイフを刺す真似を繰り返すシーン。寸止めにされたその画は、美術作品のように時が止まっている。歴史絵巻の一部を静止させるかのような、この絵画的スローモーションの使い方は、やがて主人公の描いたイラストが神殿を破壊した挙句、何処かへ出て行ってしまうことと結びついているように思う。


(聖)母のイメージ、顔のイメージ。序盤から幾度も繰り返される「顔」の切り返し。いかれたテロリストのような精神を病んだ男の顔(強烈!)。そして幻の女ディアーナのイメージ。文字通り頭の中の想像/創造のイメージ=(聖)母からの逃走。対照的な二つの枝分かれをみせるラストに余韻と余白が残る。


追記*去年法政大学で旧作『かもめ』を見ておいてよかったと思う。現実時間を緩やかに超現実的に歪ませるベロッキオ映画。『母の微笑』の決闘シーンは興味深い。