『ポケットの中の握り拳』(マルコ・ベロッキオ/1965)


アテネフランセシネマテーク・ジャパニーズ・アーカイヴス・セレクション」にて。ようやく見ることのできたベロッキオの処女作『ポケットの中の握り拳』は思い描いていた以上に奇天列な作品だった。ルー・カステル青山真治赤ずきん』の存在感が記憶に新しい)のヌーヴェルヴァーグの登場人物と共振するような息堰ききった運動はどこか「遅延された自殺」という反抗の意匠を纏っている。ルー・カステルの反抗には殺伐とした行き止まりのデッドエンド感が常に纏わり付いている。新聞の記事を盲目の母に読み聞かせるシーン。生活の閉塞的な空気に囚われウンザリしているルー・カステルは次第に新聞を投げ出し想像上の殺人事件を母に聞かせる。やがてこの陰惨な想像上の事件を我が物にするルー・カステルの狂気/凶器が自身の勝利/敗北と重なることで反抗の幕は閉じられる。ルー・カステルによる勝利/敗北のダンス=叫び(!)を見届けた美しい姉が不穏な影を纏う。『悲しみよこんにちは』(プレミンジャー)や『気のいい女たち』(シャブロル)の女たちのように彼女もまた自身に降りかかる過酷な運命を透明な眼差しで受け入れている。ダンスシーンにおける相手の男性の背中越しから放たれる女性の視線というサスペンスのクリシェともいえる伏線が諦念と痙攣するより他のない笑いを帯びる。


物語の経済を超越する細部の演出が強烈だ。家族間のドタバタの揉み合いや、扉の枠越しに男性群と女性群が入れ替わるダンスシーン(音楽はモンド期のモリコーネ)。また些細なシーンながら奇妙なサスペンス性を帯びるルー・カステルの少年への命令シーン。ルー・カステルは陽光を浴びる女性の様子を観察して来いと命令するわけだけど、少年を目の前に寝ているふりをする女性が、突如強烈なキスでお返しするというシーン。思えばこの落ちこぼれ少年が孕む宙吊り感はルー・カステルの仕掛ける「ゲーム」の一貫だったのだ。つまりルー・カステル自身がゲームの結末を予測できていない。そのことは出来のいい兄(家族を養うことを疎ましく思っている)を除く家族全員を連れた狂気のドライブシーンにも受け継がれる。デッドエンドへ向かう目的のドライブが些細なことで結末にブレを起こしてしまう。盲目の母を崖から突き落とすシーンのゲーム性も同じく。


棺に納められた母の遺体を挿んで姉弟は笑いあう。その笑いが発作による痙攣的な笑いに昇華されるとき、バラバラになった家族とゲームの結末がやって来る。ルー・カステルの叫びが爆音のオペラによって掻き消される。ルー・カステルはまるで唄いながら肉体を消滅させていく。引き攣った身体を前に手助けするでもない姉の怯えたような安心したかのような表情。衝撃が走る!傑作。


追記*会員制の上映会なのでアテネのホームページに掲載されてませんが(当日入会可。映画の券自体は500円)『ポケットの中の握り拳』は今週末に再上映があります。日時は4月24日(土)14:40〜。貴重な上映になります。