『トラッシュ・ハンパーズ』(ハーモニー・コリン/2009)


イメージフォーラム・フェスティヴァル2010にてハーモニー・コリンの新作。VHSの撮影素材を恐らく古いテープに幾重に渡ってダビングした荒々しい画質(一昔前の防犯カメラ並)のこの作品は、処女作『ガンモ』以前の獰猛さで『ジュリアン』を撮ったような作品だとひとまず言える。ところが『ジュリアン』のラストが「胎内回帰」といった既存のイメージに回収されたことを反省するかのように、『トラッシュ・ハンパーズ』の赤ん坊はイメージに抵抗する。思い返せばハーモニー・コリンは『ガンモ』から一貫して同じ作品を作り続けていると言えないだろうか。コリンの映画は統合不全のようなフリーキーさを纏いながら、同時にいつも「子守唄のような」映画を志向しているように思う。記憶に新しいところでは『ミスター・ロンリー』における一斉にダイブする修道女たちを思い返してもいいだろう。『トラッシュ・ハンパーズ』の統合不全の世界の中に、ほんの1カット、アメリカ国旗が風に揺れていたことは興味深い。現行世界のレクイエムとしてのコリン映画は、よりバカバカしく、よりジャンクに、終着のない悪意と救済の間を彷徨いながら、より強固な形で作品に刻まれている。



「ゴミを姦淫する」ゾンビのようなマスクをした男女。ニワトリの鳴き声のような甲高い悪意の笑いが全編に響き渡る。肥満児が赤ん坊のオモチャに金槌を振り落とすシーン。頭がストッキングで繋がった二人のオッサンが性交するシーン。登場人物の発する饒舌な言葉に脈絡がないように、統合不全的な断片のイメージが、各々が周到に結びつかないイメージのように、破裂を繰り返す爆竹のように、バラバラに、ハキダメの如く披露される。アルバート・アイラーヘンリー・ダーガー南北戦争に強いオブセッションを持ったように、統合不全のイメージには予測も終着もない。しかしそれを周到にコントロールする健常者コリンという図は潜伏的に冴え渡っている。


劇中で繰り返し唄われる「3人の小さな悪魔が壁を越えた」がメロディをそのままに、替え歌として反復される悪戯が興味深い。『トラッシュ・ハンパーズ』は音楽によるズレを痙攣的に連続させる映画なのだ。”うまくやれ、しくじるな”。『ジュリアン』におけるフリースタイルのライミングが徐々にリズムを重ね奇妙なグルーヴをつくり出していったように、姦淫のダンス(!?)とタップダンス(単なるジタバタとも言える)は繰り返され、ついに最大の演奏会が訪れる。奇怪なギター演奏とテーブルの上のクルクル回るオモチャ、”眠るんだ、夢を見ろ”の呪文を繰り返しながら、頭部を袋詰めにする拷問シーンは、本作の最も傑出したシーンだろう(完全にコジツケながら青山真治赤ずきん』のダイナマイト拷問シーンとの共振を感じた)。表情を奪われた男の誕生会、男のアップは何処にも行けないブルーズを放っている。


『ジュリアン』の主人公が死んだ赤ん坊と共に胎内回帰したようには、ことは進まない。赤ん坊は四六時中自転車で引きずりまわされ、それでも表情を失った女とは臍の緒のような紐で結ばれてしまう。この赤ん坊に「変化」が訪れるとき、”顔のない女”の身体は冷たい外気に曝されることになる。何処にも行けない母子を包み込むカメラがその神秘的な恐怖/美しさを讃えている。ハキダメの昇華に心が震えた。


追記*レオス・カラックスハーモニー・コリンの関係でいえば、『トラッシュ・ハンパーズ』の”小さな悪魔”3人組はメルド=ドニ・ラヴァンを正しく受け継いでる。(Twitterにも書いたのだけど、かなり重要かもと思ったので転載)。『メルド』の増殖としての『トラッシュ・ハンパーズ』というのは面白いかもしれないよ。