『Demi-tarif』(イジルド・ル・ベスコ/2003)


かなり以前に青山真治氏がブログで長編処女作『CHARLY』に賛辞を送っていたことから気になっていた女優イジルド・ル・ベスコの中篇。イジルド・ル・ベスコといえばブノワ・ジャコの『いつか会える』のような少女映画の印象が強い女優。ちょうどミア・ハンセン=ラブの処女作『すべてが許される』と同時期の長編デビューとあって、『CHARLY』は青山氏のブログでも比較されていた。また今回取り上げる『Demi-tarif』はクリス・マルケルが「ゴダールの『勝手にしやがれ』を初めて見たときのような・・・」という常套句を使った賛辞を送っている。さて、イントロはここまでとして、ハーモニー・コリンに影響を受けたと思われるイジルド・ル・ベスコのデビュー作はなかなかに興味深い。「半額」と題された本作でル・ベスコは「ユートピアと犯罪」を描いている。少年×1+少女×2だけで生活を送るその内部=ユートピアと、少年少女が外部に触れることで起きる犯罪。その衝突が粗いフォルムの中に独特のポエジーを呼んでいる。


『Demi-tarif』においてカメラの高さや距離は少年少女の身長に合わせられる。よって大人は首より上はフレームの外に極端なくらい弾き出される。説明的な外景ショットを一切挿まないという戦略によって、捨てられた子供たちによるユートピアという輪郭が徐々に際立っていく。少年少女は日々を生き抜くための犯罪を日常的に犯している。興味深いのは犯罪を犯しているという罪の希薄さ=大人社会という外部に触れることへの執着のなさと、少年少女の内なるユートピアが等価であるかのように描かれているところだ。家にいるときの仮装パーティーに興じるような無軌道な彼らの運動と、無料で入った映画館でスクリーンに真剣に見入ってしまう視線、捨てられた少年少女による「子供たちの楽園」は、どちらも真実であるがゆえに、どちらも大人を欺いている。特にもっとも可愛らしい三女の少女の顔が、残酷なくらいの軽さで大人を欺いているところが痛快であると同時に怖くもある。さすらうように(追い出されるように)この街を去っていく少年少女は、生きるために身につけた大人への欺きによって、仮面を仮面とする気の緩みさえ許さないのだ。ただ、水の中から覗く少年の大きな目のアップが作品を見つめるこちらの視線と合うことだけが、この作品の最大の救いであり、問いであり、ポエジーだと感じる。ハーモニー・コリンの『トラッシュ・ハンパーズ』において、仮面を被った彼らがこちらをじっと見つめる視線が、表情を奪われているがゆえに、行き場のないブルースを堪えていたように。