{映画}『ラヴ・イズ・パーフェクト・クライム』(アルノー&ジャン=マリー・ラリユー)


東京国際映画祭で上映されたラリユー兄弟の新作『ラヴ・イズ・パーフェクト・クライム』は、まず冒頭のマチュー・アマルリックが運転する車のヘッドライトに照らされた山肌の色合いが、これまで山をユーモラスに撮ることに執着してきたラリユー兄弟の山肌と異なることにハッとさせられる。現金に手を出すな!と云わんばかりの不吉な事件を予感させるこの光に照らされた山肌の道をカメラはひたすらに突き進んでいく。あまりに気持ちのよいショットの連続にこちらが前のめりになってスクリーンを見つめていると、やがてこの山肌がこれまでのラリユー兄弟の山肌と実は何の変わりもない色合いだということに気づかされ、最初の驚きが悦んで転倒をしてしまうという奇妙な快楽を浴びることになる。アンドレ・ブルトンの言葉として引用される風景と人物の溶け合うところ。劇中の台詞にもあったように「原体験ではなく原風景」。ラリユー兄弟はこれまでも山で映画を撮ることに関して、単なるロケーションの魅力であったり、単なる人物の背景としては選択してこなかったのだ。傑作『ピレネー山脈への旅』で起こる、多幸感に溢れた自動筆記のような笑いは、人物と風景が入れ替わり可能な「容れ物」としてカメラの前に在ったからこそ生まれたものなのだろう。そしてこの新作は、愛という概念が生まれる前の物語、愛の原風景に関する映画だ。



大学構内という設定の美しい建築ロレックス・ラーニングセンターの壁がないという特殊性は、『ラヴ・イズ・パーフェクト・クライム』の主題と見事に溶け合っている。この透明な仕切りのみの空間で繰り広げられる会話の最中に、学生(主に美しい女性)たちが匿名性を帯びた顔で画面を次々と通り過ぎていく。マチュー・アマルリックが部屋に連れ込んだ女の子の名前を何度も間違えたように(ナジャ!←アンドレ・ブルトン)、この作品における女性の属性は、たとえばホセ・ルイス・ゲリンシルビアのいる街で』における「シルビア」のように入れ替え可能であり、それはマチュー・アマルリックが無意識の「犯罪」として自動筆記的に探している存在でもある。ゆえにルイス・ブニュエルの『黄金時代』がスクリーンに映し出されたときのサラ・フォレスティエの無関心、マチュー・アマルリックを見つめながら誘惑するようにリップを口に塗る仕草、目の前に投射される自動筆記の映画をトレースしたかのような表情は、それが悪魔の儀式であるかのように魅力的だ。


マイウェン演じるミステリアスな女性(個人的に『隣の女』のファニー・アルダンを想起した。マイウェンはイジルド・ル・ベスコのお姉さん)との「完全犯罪」の前に、マチュー・アマルリックの「女性=匿名X」が一度だけ例外的に外れていくシーンに涙した。それは原体験に関する、いや原風景に関するエピソードが堰を切ったように語られる短いシーンだった。上映後のQ&Aでマチュー・アマルリックが語ってくれたラリユー兄弟の原風景に関する言葉、「ラリユー兄弟はピレネー山脈の近くで生まれ、お祖父さんは山で熊の出てくるアマチュア映画を撮っていた。ラリユー兄弟はそうやって映画を学んでいった。」を何度も思い出してる。ラリユー兄弟にとっての映画の原風景。傑作の誕生に祝福を!


追記*サラ・フォレスティエが熱い!アブデラティフ・ケシシュ『身をかわして』の女の子。ジャック・ドワイヨンの『ラブバトル』が楽しみでしかたない。てか、久しぶりにブログ書いて使い方とかどんな風に書いてたっけか?とか忘れちゃってたわ〜。