『ラクダと針の穴』(ヴァレリア・ブルーニ=テデスキ/2003)


輸入DVDでヴァレリア・ブルーニ・テデスキの長編処女作。ミア・ハンセン=ラブをはじめフランスの女優が撮る映画に注目している。ブノワ・ジャコーの少女映画でお馴染みのイジルド・ル・ベスコや、本作でもテデスキと共同脚本を担当しているノエミ・ルヴォフスキ。テデスキ監督作といえばシネフィルイマジカで放映された第2作『女優』(日仏学院カイエ週間でも上映された)の痛快ぶりが記憶に新しい。ポートレイトのように些細な女優の身振りが壮大なファンファーレと共に大西洋を越え、大きな世界へジャンプする『女優』は、個人的に偏愛している快作だ。以前書いた記事はこちら。http://d.hatena.ne.jp/maplecat-eve/20080722



『女優』と同じくセルフポートレイトの要素が強い本作は、テデスキが教会の扉を開け外の世界にとび出すショットから始まる。「ラクダと針の穴」とは福音書に書かれた「富んだ者が神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通るのがやさしい」のことで、テデスキは自身が金持ちであることに悩み、神父に告解することを日課としている。実際のテデスキ自身が大富豪の令嬢として育ったことや、キアラ・マストロヤンニ(ブロンド姿がキレイ!)演じる妹に、実妹カーラ・ブルーニサルコジ大統領夫人)を重ね合わせていること、なにより実の母(画像参照)が母親役を演じていること、など『女優』とは比較にならないほど自伝的要素が色濃い。にも関わらず、『ラクダと針の穴』は「私映画」の自足・閉塞感からは遠いところに着地する。テデスキが「あなた本当に大人なの?」と母親に怒られるシーンに象徴されるように、ここでのテデスキの振る舞いのすべては子供染みている。かつての愛人とその妻の横たわるベッドに、「寝れないの?こっちにおいでよ」と誘われるがまま、3人でベッドを共にするテデスキ。運転中の恋人と共に革命歌「インターナショナル」を大声で唄っては街行く人々とコール&レスポンスするテデスキ(楽しい!)。無説明に少女時代の回想シーンに入っては、空へ消えた”赤い風船”のように、または「ニジンスキーのよう」(実際は不恰好なデタラメのダンス)と評されるバレエレッスンのシーンのように、”宙に止まったまま”=「大人の女」を演じる大人になることに挫折した、テデスキの運動が魅力的だ。


もしくはテデスキ(とテデスキの家族)は初めから演じることなしに大人の女/少女を超えていたのかもしれない。少女時代に誘拐されるシーンで、誘拐犯一味を一家の夕食に誘うテデスキと、その後盛大に賑わう一家&誘拐犯のパーティーは馬鹿馬鹿しいまでの痛快さによって、大人/子供の境界を予め消失しているように思う。この大人/子供の消失が生と死の境界にまで波及するとき、告解によって解決できないものへの肯定が画面に滲み出す。大西洋をボートを漕いで渡る少女のままの姉妹(または母娘)のまま、決定的な死を悼む。少女時代の父親の頬へのデタラメなキスシーン(べっとべとの激しいキス)を思い出す、笑いのレクイエム。


「ねえねえ、映画のようなキスを教えてあげようか?」


追記*こんな映画を撮ってヴァレリア・ブルーニ=テデスキカーラ・ブルーニ姉妹の仲が不安です。一部カーラ・ブルーニキアラ・マストロヤンニ)が結構キツイ性格で描かれてるので。ちなみに『女優』と同じく豪華キャスト。イヴァン・アタルエマニュエル・ドゥヴォスジャン=ユーグ・アングラードなど。