『リグレット』(セドリック・カーン/2009)


フランス映画祭2010」にてセドリック・カーンの新作。セドリック・カーンの描く”宿命の女”には、身体的にも内面的にも決して軽やかさを纏うことのない、どっしりとした重さを感じる。『倦怠』(1998)におけるソフィー・ギルマンのあのポッチャリとした重そうな裸体を思い出す。正直に言えば何故この娘にハマり堕ちていくのか一目では分からないような女性を喜んで使っている。初めにそう思わせておいて内側をギスギスと救いなく掘り下げるのがセドリック・カーンの映画ならば、今回のヴァレリア・ブルーニ・テデスキというキャスティングは実に納得がいく。いまやフランスを代表する女優でありながら(と同時に非常に才能溢れる監督だ)、小悪魔的な軽やかさより、どっしりとした重みを繊細な演技でスクリーンに体現するテデスキの表現力の無比の独創性が活きている。


セドリック・カーンの映画といえば『ロベルト・スッコ』(2001)にも度々出てくる予感としての車の移動シーン。たまたま街で目が合ってしまっただけでイヴァン・アタルは金縛りのようにテデスキに(再度)引き寄せられてしまうわけだけど、直後の再会の約束、あのとき目の合った一瞬で完全にテデスキの支配下に堕ちたことが分かるように、テデスキの家までの道程、その指示出し=指令が電話で行なわれる。この早さの演出が素晴らしい。田舎の森をひたすら抜けるというところが、どこかシャブロル譲りのような印象を与えるこの移動シーン。男が女の囚われの身となる予感、支配は早々に始まっていた。イヴァン・アタルの堕落は、最愛の母や最愛の妻を失いそうになる傍らで逡巡の時間さえなしに、その早さは突発的な情事に賭けられる。ロフトへの梯子を使ったセックス描写が如何にもセドリック・カーンらしい。


イヴァン・アタルとテデスキの鬼ごっこなど随所に見所はあるものの、また、堕ち続けることの救いのなさ、さらに、果ての果てに立つテデスキという壁の尊大さは感じるものの、『倦怠』ほどの愛の支配、密室的な逃れられなさは感じられず。ちと残念。