『すべてが許される』(ミア・ハンセン=ラブ/2007)


横浜日仏学院シネクラブにてミア・ハンセン=ラブの処女長編。傑作『あの夏の子供たち』を経た後にこの処女長編を体験するとミアが映画作家として設計するタイム感がより鮮明に浮き上がる。”時間の積み重ねにこそ興味を持っている”と語るミアの作品では記憶のフラッシュバックは用いられない。にも関わらず私たちはミアの映画に出てくる女の子の体温に容易に近づき、彼女の視界と重ね合わせるようにその景色を見る。作品内では決して描かれない彼女が辿る記憶の走馬灯を、あたかも自分との近似が避けられない親密な記憶であるかのように「映像」として体験することができる。映画の終盤、列車の車窓から流れる景色が不意にファーストショットの橋を捉えたとき、大人の女になった彼女が遠くに視線をやるその「映像」にはきっと、幼い頃の父とのボール遊びや、家族で行った遊園地の幸福な情景が映っていたことだろう。それを私たちが感知できる、よく知っている、ということがミアの映画を特別なものとする。



女の子がクラブで踊るシーンが反復される。レインコーツの「LOLA」(!)がフロアに響き渡り、プロジェクターの放つ映像が無心に踊る女の子の横顔に投射されるという魅惑的なシーン。二度目は舞台を現代に移して大人の女になったパメラちゃんがハウスミュージックで踊る、という物語上の伏線ともなる素晴らしいシーン。このクラブのシーンにおいて「自然主義的」なのは、ここで台詞がないこと、または消されているということ。実際のクラブではかなりの大声を出さない限り人と話すことは困難だ。にも関わらず映画の世界ではクラブで容易に会話が成立する。とはいえ、ここで重要なのはミアの「自然主義的」な演出ではなく、言葉を消す、という演出だろう。離れ離れになった父親との再会(@公園)のシーンにおいて、父と娘の言葉が消されていることに注視したい。言葉を消すことで浮かび上がる記憶は、エンドロールのピアノの演奏にも用いられている。そう、私たちは既に知っている。そして記憶とはポエジーに変化せざるを得ない宿命を常に背負っている。瞼の裏に記憶を描くかのように目を閉じる母親と、「またあとでね」と森の中に去っていく娘。消滅と再生。フェイド・アウト/フェイド・イン。やさしく悲しい思い出は一遍の詩として、いま此処に消えいま此処に生まれ変わる。美しい!


追記*上映後の大寺眞輔氏の講演は食事やダンスのシーンから紐解くミアの映画の設計図で面白かったです。ミアの映画は大好きなんだけど、実のところ一見「自然主義的」な作風に語りづらさを感じたので、とても参考になりました。男性作家にとっての女性=神秘の逆ヴァージョンがミアの描く「父」だ、という話に納得。対象との距離感の問題です。


追記2*女の子の横顔やバストショット撮らせたら現代ではミアに敵う者なし?ってくらい女の子を撮るのが上手い!ちなみにミアはこの夏、新作『Un amour de jeunesse』を撮り始めるようです。楽しみ!


追記3*『すべてが許される』について書いたこの拙文と繋がってると思うので、『あの夏の子供たち』再見時の感想とリンクしておきます。
http://d.hatena.ne.jp/maplecat-eve/20100609