『Inland』(タリク・テギア/2009)


日仏学院「アラン・フレシェールとル・フレノワ国立現代アート・スタジオの軌跡」にてヴェネチア国際映画祭で国際批評家連盟賞を受賞の『Inland』。アルジェリア出身の監督というと最近では『最後の抵抗(マキ)』のラバ・アメール=ザイメッシュが記憶に新しいものの、フランス国内の移民の問題を描くザイメッシュとの共振性は薄い。むしろアルゼンチンのリサンドロ・アロンソのような黄泉へと向かうロードムービーとの共振を感じる。アルジェリア西部の戦地跡に赴く主人公の旅は、土地の歴史への追憶であるばかりか、自己の消失の旅でもある。この「旅」を革命と呼ぶことに『Inland』の設計は賭けられている。旅の終盤、主人公は恍惚の表情で訴える。「歩くことが革命なんだ!」


黄色い砂塵が吹き荒れる広大な戦地跡をピンボケのカメラが捉え、控えめな電子音混じりのノイズが画面を包むファーストショット。アルジェリアへ向かう移動の際の街のノイズが緩やかにデジベルを下げていくのが印象的だ。顔だけをフレームで切られた登場人物の会話。この物語は予め個の消失を宿命づけている。ルーツを持たない者が歩む追憶の旅。ここで主人公は自己のアイデンティティを発見するよりも、それがイコールで自己の消失と結びついていることに、むしろ悦びを見出しているように映る。丘の上から超ロングショットで大きな木で首を吊るイメージショット(?)が象徴的だ。病院に運ばれた重症の戦士は「名前など失った」と繰り返し警察に話す。


主人公が黒人の少女と出会うことで映画は活気を帯びる。少女と移動する列車、線路を長く長く撮るシーンが素晴らしい。少女を乗せ一目散に逃避行するバイクは砂塵を颯爽と駆け抜ける。少女の着る薄黄色いパーカーが山肌の色と重なってカメレオンのように岩肌に隠れてしまうシーン。また、少女の歌で目覚めた主人公が少女を探すシーン。何処からともなく聴こえてくるその声をカメラはパンニングで探すように捉える。少女が透明な「導き」の存在であることを示すようなシーン。”アイム・ノット・ゼア”。彼はつぶやく。「ぼくはどこにも存在しなかった」


再び黄色い砂塵が霧のように覆う戦地跡、カメラは獰猛な竜巻のように少女を捉える。このラストカットがカッコよい!まったく違う方法ながら、『ユリイカ』(青山真治)の宮崎あおい&空撮を思い出した。


願わくば主人公と少女の逃避行がもっとあれば、と思うものの、素晴らしい作品だと思った。一週間前、「美しい」と絶賛していたアラン・フレシェールの言葉に感謝。