『ジュテーム、ジュテーム』(アラン・レネ/1968)
日仏学院「アラン・レネ全作上映」にてデプレシャン推薦の『死に至る愛』と共に最も楽しみにしていた『ジュテーム、ジュテーム』。アラン・レネの濃密な60年代は本作をもって一旦閉じることになる。以後『薔薇のスタビスキー』(1974)までの沈黙の理由が、1968年という特権的な年号や本作の出来栄えと大きく関わっているのでは?と勝手に憶測するわけだけど、なるほど、これは「黙殺されたサイエンス・フィクション」(ジョナサン・ローゼンバウム)という現在の地点からすれば賞賛ともいえる言葉を与えられるに相応しい、興味深い作品だ。で、ちょっと馬鹿馬鹿しいところがある。
精神病院の中庭を歩くクロード・リッシュを捉えたロングショットと、その独特な歩みの速度に夢遊病患者のような印象を受ける序盤。科学者2人に挟まれ地図にない研究所に連れられる車の移動シーンが幾層にも切断され、移動する車外の風景を速度によって特定させない。いわば風景になる以前、記憶に刻まれる以前の、この世の外に置かれたSF的なロケーションが、かなり計算されたカッティングによって描写される。このような緻密なカッティングはメインとなる謎の「球体」による人体実験のシーンへと受け継がれる。クロード・リッシュは機械の故障により自身の記憶を辿る旅に出る。これがポスター(画像参照)のような万華鏡の世界、切断された記憶の断片として、女から女の記憶へと矢継ぎ早に紡がれる。同時にこの旅は人間の細胞レベルの記憶の退行でもあって、ここで度々モチーフにされるのは女性名詞の「海」だ。クロード・リッシュの半漁人化(部屋のポスター)といった、馬鹿馬鹿しさと隣り合わせの退行の旅。電話ボックスは海水で埋められる。
1度目の「ジュテーム」と2度目の「ジュテーム」は入れ子状であり、且つその声色は万華鏡に映える無数の模様=言霊だ。この作品のタイトルが「ジュテーム」を二回繰り返していることは、何より興味深いと思える。ペンデレツキの控えめな響かせ方が素晴らしい。