『ぼくら、20世紀の子供たち』(ヴィターリー・カネフスキー/1993)


黄金町ジャック&ベティでカネフスキー。扉を閉めることによって「皮肉なくじ運」の20世紀(ソ連崩壊)の子供たちの記憶は甘美な厳しさでパッケージされる。ただ、この扉は1つ世紀を跨ぎ、現在の日本で再び開かれてしまったような感覚、認識を持っている。もしくはこれから此処日本で開かれようとしている扉。ロシアの子供たちが無邪気な心持で得意げに競い合うように語る犯罪自慢は明らかに度を越しているのだけど、このような世界が近い未来に迫っていることを感じずにはいられない。これは遠い国の遠いドキュメントでは断じてない。生き残るために子供たち(10歳前後〜18歳未満)が犯す強盗や殺人、その無邪気なまでの犯罪を他人事だと思えない自分がいる。10歳くらいの少年は「世界一強いと自慢するから突き落とした」(溺死)と語る。このような無邪気な殺人をどういう経路で責め立てることが出来るだろうか?育てた親を責めるだって?まさか!とんでもない!服役中の母親は「悪いことをするとこんな酷いことになるんだよ」と教えたいがために、息子に刑務所の通路を歩かせる。この悪循環の前ではどんな正論も途方に暮れざるを得ない。なにが原因でこんなことになってしまったのか。政治が?20世紀が?「自活」する子供を前にカネフスキーは言う。「ヒーローを探しているんだ」。


鏡の前で犯した罪を告白させるシーン然り、牢獄に一人一人少年犯罪者が入ってきては犯した罪を告白させ牢獄が少年少女の犯罪者で一杯になるシーン(数多い「告白」シーンの中でも最高に映画的なシーンだ)。子供たちはやはり競い合うよう互いに笑みを浮かべながら自らの罪をカメラの前で告白する。長回しが遮断され次のカットでこの牢獄にパーヴェル(『動くな、死ね、甦れ』『ひとりで生きる』の少年)が入って来る。カンヌで2度受賞した傑作群の立役者、主演俳優である、あの彼が刑務所にいる。カネフスキーが「周りに殺人者ばかりで恐くないのか?」と尋ねると、パーヴェル少年は「恐くないさ。過去に何をしていようが関係ない。これからどう生きるかが大事なんだ」と答える。この言葉にひどく心を打たれてしまった。未来へのヒントがある。


カネフスキー傑作群のヒロイン=ディナーラが刑務所にパーヴェルを訪ねる上記画像のシーン。2人の寄せ合う肩の抱擁に残酷な距離が滲み出る。この作品でカネフスキーは子供たちに盛んに歌を唄わせようとするのだけど、2人のかつて辛苦を分かち合った同胞のような親密な近さで唄われる歌(『動くな〜』で唄われた歌)の悲痛さに涙を禁じえなかった。ギターで弾けるようになったんだぜ、と自慢するパーヴェルの無邪気さが胸を打つ。この二人の親密な近さは距離を生む。親密な近さは2人を結び、同時に引き裂いてしまう。ただの感動的な抱擁ではない。感情の歴史(個人)、歴史の感情(外部)、感情の襞、そのレイヤーが幾層にも積み重なった抱擁なのだ。


自由だ自由だ畜生!
ぼくら、20世紀の子供たち!


「映画にまた出たい。台本はあるのか?」と問うパーヴェルに「台本はある」と答えるカネフスキーゼロ年代が終わろうとしている今。果たして生存さえ確かでない2人(とディナーラ)の再演を願わずにはいられない。奇跡が起きて欲しいと心から願った。


カネフスキーのほかの作品同様、「傑作」という言葉では全く足りない。