『ムーンライズ・キングダム』(ウェス・アンダーソン/2012)


ウェス・アンダーソンの新作は、何かを正そうとしたり、何かを変えようと主張する作品ではなく、登場人物のパーソナルな歴史が抱えてしまった悲しみを、それぞれが受け入れること、尊重すること、さらに調和させることへ向けて、映画設計の美学的な重きが置かれている。この世界における悲しみとは、そのまま「人生」という言葉と置き換えられるが、ウェス・アンダーソンの壮大なヴィジョンは、「人生」という言葉に内包される「国境」という言葉さえ見据えているようだ。『ムーンライズ・キングダム』において、頻繁に地図と行く先が示され、さらにアクションの美学的な側面において、戦争映画のユーモラスな書き換え(具体的には行進。テントという小道具。の絶妙すぎるズラし方)が行われているのは偶然ではないだろう。旅を続けることによって新たな地図を書き加えていくこと。地図にない地図を誰かと新たに作り出していくことこそが、”ぼくらが旅に出る理由”であり、この世界に残された歓喜なのだ。サム少年の「ディス・イズ・アワー・ランド!」という叫びには、そこが小さな恋人たちの二人だけの王国であることだけでなく、この世界に新たに書き加えられた地図であることを知る、という感動がある。『ムーンライズ・キングダム』は、互いの悲しみを黙って受け入れることだけではなく、その手法、その距離の在り方を、あくまで映画の美学の上に立つ、ただ一つの方法であるかのように示している。たとえば『ザ・ロイヤル・テネンバウムズ』のマーゴ(グウィネス・パルトロー)の少女時代ともいえる(二人はお風呂のシーンで一致するのだが、それはこの記事ではやや余談だ)少女スージーが抱える双眼鏡の視界、その運動がそれだ。『ムーンライズ・キングダム』において反復される、ズームアウトによる全景の提示と、形式的には対照を成す、双眼鏡による他者との距離の接近。サムとスージーが草原で再会するシーンにおいて、他者(恋愛)との距離をキャッチするという動物的な感覚(胸キュンです!)で双眼鏡は用いられ、スージーが母の不倫を目撃するシーンにおいては、逆に自分が疎外されていく距離を知る、という悲劇のために双眼鏡が用いられる。『ムーンライズ・キングダム』において、ズームイン/アウトは、それが真逆の運動であることに関わらず、共に人生の喜びと悲しみを「クローズアップ」にしてしまう。スージーは言う。「(双眼鏡は)どんなものでもすぐそこにあるように見える。私の魔法だと信じているの」。それはサムの美しい返答の通り、韻を踏まない創造的な”詩”に他ならない。



ムーンライズ・キングダム』は、大人vs子供の古典的な物語の構図によって駆動しているといえるが、ウェス・アンダーソンのチームによる、丁寧な視点の変化、ズラし方によって、その強固な構図は完全に解体され(そう、ちょうど劇中に吹き荒れる嵐のように!)、登場人物のそれぞれがそれぞれの演奏を担当する者として「調和」を引き受ける。新たなオーケストラを奏でるために。ここには新鮮な驚き+笑い(ここが大事!)が溢れている。『ムーンライズ・キングダム』は、他者との違いを尊重することで世界を再構成させる、世界をグルーヴさせていく、発明品のような映画だ。ちょうど最近体験することが叶った『ホーリー・モーターズ』(レオス・カラックス)で、ミシェル・ピコリの放ったこんな台詞を思い出している。「美は見る人の瞳の中にある」。見る人の瞳の中にだけにある記憶が映画(=王国)を紡いでいくとしたら?『ムーンライズ・キングダム』で、最後にサムと別れるとき、スージーがどういったアクションをとったかを思い出そう。そして少年サムが残す、”決して忘れない”という無言の約束は、『ムーンライズ・キングダム』を見る人の瞳の中にだけ記憶される。「ディス・イズ・アワー・ランド!」と歓喜を叫んだサムとスージーのように、劇場が明るくなったあと、ガッツポーズをとることが、『ムーンライズ・キングダム』への最良のアクションなのだ。



追記*『ムーンライズ・キングダム』と『ホーリー・モーターズ』は全く違う作品だけど、この先の人生、どんなことがあっても旅をすることを止めてはならない、と共に教えてくれるという点で、私にとっては同じように大切な映画です。両作とも2度目、3度目の方がグッとくる映画です。しかし、ブルース・ウィリスに泣かされるなんてね、、。あのシーンの古典映画的な画面の収まり、ハンパない。カッコよすぎるぜ。