レオス・カラックス@ユーロスペース


ホーリー・モーターズ』先行上映+レオス・カラックス登壇@ユーロスペースに行ってきました。朝7時半から並んだのもよい思い出です。大変なことになりましたが、テンションあがったね。『ポンヌフの恋人』のときは二晩前から並ぶ人がいた、というエピソードを聞いて敵わんわー、と思った次第。


さて、この日のレオス・カラックス×岡田利規×佐々木敦の対談は、ツイッターでも問題に感じた点を表明してしまったように、まったくうまくいきませんでした。あらかじめ断っておきますが、この記事自体は、うまくいかなかった対談を曝してやりたいといった悪意は微細もありません。また、1時間に渡った対談の完全版などそもそも書けるわけがないので、カラックスの言葉を中心に拾うことにしたことを了承した上で読んでいただけると助かります。なのでこれを読んでもあの場の空気は分からないはずです。間違っても佐々木氏や岡田氏の話に耳を傾けていなかったわけではないですよ。あの場に関しては、個人的に問題というか、相違だと思ったところはいくつかあるのですが、そのことはまた別の問題です。なによりこの日の主役である『ホーリー・モーターズ』が、そしてカラックスの言葉自体が、とても感銘を受ける内容だったからです。実物のカラックスは、すごくカッコいいのだけど、どこか弱々しい、母性をくすぐる、つまり彼の映画と同じ印象でした。ずっと見てきた映画と変わらない人が其処にいた。嬉しかった。


対談は岡田氏とカラックスのファーストコンタクト、「青山真治に会いたい」というカラックスの突然の要望がきっかけで、日仏学院でのパスカル・ランベールを迎えた企画の打ち上げの店で、不意打ちのように遭遇した。前からカラックスのファンだったのでとても驚いた。というエピソードから始まりました。以下採録


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岡田「(『ホーリー・モーターズ』は)演技をするということを考えるとき、演じている自分と本当の自分は違う、と考えられがちですが、果たして本当にそうだろうか?、という問いを、自然主義的ではない手法で観客に説得力を持たせるように作られている作品でした。演じるという問題を、映画人や演劇人のように演じることを職業として扱う人だけでなく、そうでない人にまで深く関係する問題として提示している作品だと思いました。」


佐々木「今日岡田利規さんをゲストとしてお招きしたのは、『ホーリー・モーターズ』がこれまでのカラックスさんの作品以上に、映画についての映画、演技についての映画だったからです。演技ということを中核に添えているという意味では、映画と演劇は兄弟のような関係にあると思います。」


カラックス「私自身この映画を発見したのは編集の時でした。この映画は短い時間で構想され、撮られています。他の国で他の映画を作ろうと思っていたのですが、いろいろな理由で作れませんでした。今年はなんとか早く一本映画を撮影しなければ、という思いで作った映画です。短い時間で早く作るためにラッシュを見ることをしませんでした。逆に『Tokyo!』のときは早撮りでしたが、ラッシュは見ていました。早く映画を作るときはラッシュを見るともうやめようと思うことがあります。それを避けるためにラッシュを見ませんでした。この映画の主人公はSFの世界にいる主人公、ということで構想をしました。この主人公は俳優と呼べるかもしれませんが、むしろ俳優ではなくSFの世界に生きている人物です。この一人の人物の一日を描きました。朝起きてから夜にいたるまでの一日です。今日生きているということはどういうことなのか?、という問いかけをしたかったのです。主人公は屠殺人であってもよいし、肉屋であってもいいのですが、そうすると彼が何故そういうことをしているのか説明をするために、フラッシュバックを使わなければならなくなります。今回のような仕組みで撮ることによって、様々な年齢、様々な人間の経験を一日の中に表すことができたのです。」


佐々木「ドニ・ラヴァンさんとはおそらく、阿吽の呼吸だと思いますが、今回の撮影にあたって何か話し合いなどされたのでしょうか?」


カラックス「今回早く撮影するために、いくつかの要素がありました。パリで撮影をすること、低予算で撮影をすること、デジタルで撮ること、ラッシュを見ないことです。ただドニ・ラヴァンを撮影することは早い段階から分かっていました。ドニ・ラヴァンは私が一番知っている俳優だからです。よく知っていると言っても、実人生のドニ・ラヴァンのことは全く知りません。一緒に食事をしたことは一回もありません。友人ではありません。今ドニ・ラヴァンは私の家から200m先のご近所に住んでいますが、普段は会うこともありません。ドニ・ラヴァンは私と同じ年齢で、背丈も同じくらいです。出会ったときはお互い20歳か、21歳の頃だったでしょうか。最初の作品『ボーイ・ミーツ・ガール』のとき、ドニ・ラヴァンとはまったく話をしませんでした。出来上がった作品を見たとき、私はドニ・ラヴァンを彫像のように撮影していたことに気がつきました。よく彼のことを見ていなかったのではないか、と思いました。ですから2本目の作品のときは、ドニ・ラヴァンを動かし、ドニ・ラヴァンに踊らせました。今回の作品でもそれ以上のことは話していません。今回の場合、衣装やメイクに多くの時間をかけました。それぞれの人物がどのように話し、どのように動くのか、それ以上のことは話していません。」


岡田「僕も私生活での役者との付き合いはありません。それで十分だと感じています。」


佐々木「冒頭のシーンで監督本人が出演していることについて」


カラックス「この作品を撮るとき、最初に頭の中にあった映像はいま私が見ているような映像です。すなわち観客を正面から見ている映像です。闇の中で観客たちがいて、その人たちを正面から見る画です。観客が眠っているのか死んでいるのか分かりません。そこで眠っている人が目覚めて、そのような観客を発見する、というシーンを思いつきました。シナリオを書かなければならないので、仮の役名として”レオス・カラックス”と書きました。この映画を作っているときに、ミシェル・ピコリが演じている役を自分がやればいいのではないか、と思ったこともあります。しかしそうすると観客はミシェル・ピコリが演じている人物が誰だか分からなくなってしまう、と思ったのです。あの人物は映画作家ではありません。プロデューサーなのか、マフィアなのか、内務省の人間で監視カメラの責任者かもしれません。そこで第1部の最初の登場人物を、自分の飼っている犬と共に演じました。」


カラックス「ドニ・ラヴァンと出会ったのは20歳の時で、私はドニ・ラヴァンの20歳から50歳までを撮影してきたことになります。ドニ・ラヴァンは20歳の頃よりも遥かに偉大な俳優になりました。ドニ・ラヴァンは特殊な身体を作り上げていきました。それは素晴らしい身体で、私はその身体をいつも撮りたいと思っています。だからこそこの映画の冒頭で19世紀のモノクロのエティエンヌ=ジュール・マレーの連続写真を挿入したのです。『ホーリー・モーターズ』は人間の身体と関係があります。映画作家は画家と同じように人間の身体や顔を見ることを好みます。風景や建物やビル、人間の作り出したもの、タバコやピストルやいろいろなものを見るのが好きですが、映画作家は何よりも人間の身体を見ることを好みます。走っている人間の身体、泣いている身体、セックスをしている身体です。そこで冒頭の部分に映画の祖先ともいえる19世紀の連続写真を挿入したのです。あれは男と子供が2人でボールを投げて走り、何かを壊すのです。これこそが”ホーリー・モーターズ”、映画の神聖な原動力です。」


岡田「映画の中で”お前がお前として生きるという罰をお前は受け容れなければならない”という台詞が胸に響きました。」


カラックス「撮影をするときに何かの思想があって映画が始まるわけではなく、ある種の映像と、ある種の感情があって、その照合関係を見つけることから映画が始まります。この映画に関しては、2つの感情が基盤にありました。2つの感情、互いに相反する感情といってもいいのですが、ひとつは自分であるのことの疲労という感情です。自分自身を抜け出すことができない、いつも自分自身でしかありえない、そのことからくる疲労。自分であり続けるために狂ってしまうような、そのような疲労感があります。もうひとつの感情は、夢でもありえるんですが、自分自身を新たに作り出す必要、自分自身を新たに作り出したい、という感情です。この映画の中に「"revivez"(再び生きる)」という歌が挿入されています。しかし自分を新しく作り出すことはなかなかできません。かなりの力と幸運がなければそうしたことはできないのです。私は俳優には興味がありません。私が関心を持っているのは我々自身です。」


岡田「人間としては自分自身であることから逃れられないが、そのことと比べれば作家性は変えやすいものだと僕は感じています。僕は作家性を変更させていくことには興味があります。(カラックスが)作家性に興味がない、ということもありえますが、そのことについてお伺いしたいと思います。」


カラックス「私は寡作です。それには多くの理由があります。幸運にして若いときから映画を撮ることができましたが、いろいろな問題があって多くの作品を撮ることができませんでした。けれどもいずれにせよ、多作になることはなかっただろうと思います。それには理由があります。自分が以前の作品を作った自分と同じであると確信が持てなければ次の作品は作れないからです(注*「自分がもはや前作をとったのとは同じ人間ではないという確信が持てないと、新作はとれない」の誤訳をしてしまった、と通訳の福崎さんのツイートがありました。ただカラックスが語る言葉としては、とても美しい言葉だし、むしろとても美しい誤訳だと、勝手ながら感銘さえ受けています・笑)。たくさんの映画を撮る作家もいます。たとえばファスビンダーがそうですが、彼の場合は全てが素晴らしい作品になっています。しかしファスビンダーはそのために自分自身を燃焼させ、若死にしてしまいました。いい映画を作っていたとしても、人生のため、あるいは実験のために、あまりよくない作品を作って生きていく映画作家もいます。いずれにせよ、毎年のように自分を新たに作り出すことはできません。それは不可能です。」


佐々木「『ホーリー・モーターズ』は虚構に関する映画、ということもできると思います。今日のお話は映画と実人生、演劇と実人生という話で展開していると思うのですが、一方で映画と演劇は紛れもないフィクションといえると思います。フィクションのいま持っている力、役割とは?」


カラックス「映画の美は、映画が純粋なフィクションではない、という部分から出発しています。映画の美、映画の詩は、ドキュメンタリー的な部分、ドキュメントの部分から出発しています。この映画のドキュメンタリーの部分、それはドニ・ラヴァンが其処に存在しているというところです。ドニ・ラヴァンは私が作り出したものではありません。私が発明したものではないんです。ドニ・ラヴァンにカツラを被せたり、メイクをしたり、目の色を白にすることはできますが、その下には必ずドニ・ラヴァンがいるのです。(映画の中で)美しい女性が出てきたとしても、それは私たちが作り出したものではないのです。映画がヴァーチャルなものを作り出すこともあります。たとえばモーション・キャプチャーにはドキュメンタリーの要素は存在しません。人間は消えてしまい、その動きだけがコンピューターに捉えられているからです。それはまた面白いものだと思います。個人的に探求こそしていますが、しかしこれはもはや映画とは呼べません。最初に登場したモノクロの連続写真のフィルム、これはむしろ身体をモーション・キャプチャーとして捉えたものだと言っていいでしょう。19世紀に既に発明されているんです。何故人間の体に白いマーカーをつけて、コンピューター処理をする、という発明が生まれるまで、こんなにもの長い間待たされなければならなかったのでしょうか?19世紀に既にモーション・キャプチャーはあったのです。ドキュメンタリーとフィクションの間で、あのモノクロの連続写真では、人間が走り、ボールを投げます。モーション・キャプチャーのようにエティエンヌ=ジュール・マレーは既に人間の身体を捉えていたのです。映画において”モーション”という言葉、これは英語でもフランス語でも同様なのですが、感情、そして感動、”エモーション”という言葉と近いのです。映画にはドキュメンタリーを出発点として、こうやってフィクションに到達していく、という動きが存在します。」