『マーサ、あるいはマーシー・メイ』(ショーン・ダーキン/2011)


ショーン・ダーキンの処女長編『マーサ、あるいはマーシー・メイ』は、ただ其処に在ることの恐怖と不安を心理的な背景の説明を省いた、宙吊りのサスペンスとして描いている。この恐るべきデビュー作の設計において、ショーン・ダーキンの”説明不足”が、入念な設計に導かれた結果であることを理解するのに時間はかからない。何故なら舞台となる湖の水面に向けられたカメラの距離とそのフレーミングが、ただ其処に水が在るというだけの恐怖と不安を嫌が上でもこちら側に感じさせるからだ。乱反射する水面の鈍すぎる不穏な輝きが、そのままマーサ、あるいはマーシー・メイの、さらに観客の内面にカイロス時間的な現在地を創りあげていく。このショットに触れるとき、この作家の水に対する畏怖、倒錯的で危険なシグナルはこちらを切迫させる。マーサがカルト教団に入信した心的原因自体に意味があるのではない。この作品のカメラが向けるすべての風景、その不穏な恐怖は、マーサの台詞のとおり、夢の続きあり、現実の続きとして、ただ其処に在る。また、この作品において、”マーサ”とは、名付けられた一人の女性という「容れ物」であり、別の名前で生きていくメタモルフォーズを可能とするだけでなく、同時に、”マーサ”自身から決して逃れられないことを、あらゆる手法のヴァリエーションで示している。この映画を2回目に体験したとき、つくづくと感じたことは、『マーサ、あるいはマーシー・メイ』は極めて緻密に余白を創ることに賭けているということだった。これは恐るべき野心だ。



美学的には被写界深度のとり方という細かい配慮がまずあり、それが暗闇に忍び寄る影の古典的な演出と結びついていることは明らかだが、そういった設計の一つ一つが何と繋がり、何に奉仕しているか、ということの聡明な余白に驚きを隠せない。『マーサ、あるいはマーシー・メイ』において、マーサ(と観客)は亡霊という追っ手に常に追われ続けるのだが、マーサ自身がカメラの前、さらに他人の視線(同じくカメラアイ!)から、一枚の肖像であることを逃れられないことへの切迫した悲しみ。「自分が自分であることの疲労」が影となって一人の少女を追いかける。それは危険な雰囲気に溢れたジョン・ホークスがマーサに捧げるギターの弾き語りのシーンで最初のハイライトを迎える。ジョン・ホークスはマーサであり、マーシー・メイという名の「一枚の肖像」の歌を捧げるのだ。前座で演奏する男性のカットを割らないことと、ジョン・ホークスの歌とエリザベス・オルセン(マーサ)の顔という単純な切返しの対比があぶりだす肖像。また、ドレスアップしたマーサが階段(この作品の重要な装置だ)を降りるシーンで流れるスタンダード・ナンバー、「ソフィスケイテッド・レディ」の甘美な歌が放つ強烈な毒。洗練されたレディよ、それが君の本当の姿なのか?と問うこの曲の、因果的でありつつ、因果的であるが故に、本来の甘美な歌の記憶と別の意味を持ってしまう、という歌の響きによる反復の作用。頻繁に登場する「role」(=役割・役柄)という台詞が示す、風景や人間との関係性の齟齬。画面における美学やシナリオにおける設計は、すべて一つのこと、余白という名の亡霊を描くことに奉仕している。それらはいったい、昨日の私たちからどれだけ遠いのか?その残酷な余白に自分がいることを発見するとき、『マーサ、あるいはマーシー・メイ』は、作品と自分という距離すら失くしてしまうのだ。


追記*決して多幸感に包まれるような作品ではないけどね(笑)。けどこれは素晴らしい作品と作家の誕生だ。こんな新人が出てくるんだからアメリカ映画の鉱脈は深いんだ。ショーン・ダーキンの次回作はジャニス・ジョップリンの伝記映画!『マーサ、あるいはマーシー・メイ』のテイストでジャニスを撮るとしたら、楽しみすぎる。


マーサ、あるいはマーシー・メイ』はシネマート新宿ほかで公開中。
http://video.foxjapan.com/movies/marcymay/