『アバター』(ジェームズ・キャメロン/2009)


地元シネコンレイトにてジェームズ・キャメロンアバター』。3D(初日)と2D(本日)、両方のヴァージョンを体験したのだけど、これはとても価値のあることに思えた。ハッキリと断言できるほどの確信はないのだけど、3Dは製作者側の見せたい部分が強調されてしまうことで、逆に画面から豊かさが消えてしまうような気がする。オカシなことに奥行きの広がりに反比例して視界は狭くなる。同時に3Dのために撮られたかのようなシーンはやはり3Dならではのオドロキがあるわけで(パンドラの森の景色に一同「すごい!」と感嘆するシーン等)、簡単に3Dを切り捨てることはできない。3Dが映像の革新に貢献してることは否定できない。ただ2Dと比べたとき、それはより「ゲーム」に見えてしまう。『アバター』の制作過程やCGアニメーションにまるで詳しくない自分でも、キャメロンが「アバター」や「ナヴィ族」の表層的な造形・運動に気の遠くなるようなプロセスを費やしたことは寸時に分かる。『アバター』に出てくるキャラクターは生身の人間よりもアバターやナヴィ族の方がよりキメの細かい顔をしているのだ。さらに『アバター』は『ベンジャミン・バトン』(デヴィッド・フィンチャー)あたりから続く「反省するアメリカ映画」のラストを飾る。ここにひとつのテーマが浮上する。


スティーヴン・ラングのような決定的な「顔」を持った役者がいるにも関わらず、生身の人間の顔がどれも平板な前半、人間よりもアバターやナヴィ族の方が活き活きと撮影された前半、人の顔は個性よりも集団の中に埋没しているように思う。これは「人間らしい心身のキラメキ」を人間ではなくナヴィ族に投影させた本作のテーマと結びつく(ナヴィ族にとっての「エイリアン」は地球人)、と同時に、主人公ジェイクが事故で脊髄を負傷、歩行が困難なことからも、文字通りの「リハビリ期」と取ることができる。映画の3分の2は「心と体のリハビリ期」(これを拡大して「アメリカのリハビリ期」と解釈することも可能だろうし「キャメロンのリハビリ期」と受け取ってもいいかもしれない)に当てられる。ようやく「アメリカ」の間違いに目覚め反抗=革命を始めるに至って、人間の顔は輝きを取り戻す。ここでようやっと個性が出てくるという長い長いフリ。


いよいよキャメロンの本領発揮となる情熱的に構築された戦闘/戦争シーン。最新技術に目が行きがちだが、実は此処でこそキャメロンのB級的でアナログな映画屋魂が炸裂していることに注視したい。生身の人間とアバターが空中で戦うというVFX万歳なシーンにも関わらず、キャメロンの撮り方は到ってアナログ的だ。このシーンの基本的な構造は、空飛ぶアバター対コックピットで攻撃される人間、で構築されている。攻撃されるコックピットの中における一人芝居、撮影風景を想像してみると理解しやすいと思うのだけど、やってることは相当にクラシカル且つ映画屋の力の見せ所が問われる仕事。この戦闘シーンは最新の技術とアナログ技術の共生によって、迫力と切迫の裏に、かなり奇怪な印象を受ける。また過去のキャメロン映画の総決算にもなっているとこも面白い。映画的な技術も含め全ては共生へ向かうという結論は尤も過ぎて全くツマラナイのだけど、例えばこの作品を褒めるとき「映像がスゴイ」と言ってしまうことは、キャメロンが最新技術の裏に潜ませた野心や古典的な映画屋魂、『アバター』の本質を相殺させることに成りかねない。「ゲーム的」という批判や「映像がスゴイ」という絶賛の言葉から『アバター』を救わなければならないと勝手ながら思っている。3D初見時の疑問は解消された。素直に「御見事!」と拍手。


追記*3Dのために撮られたかのようなゴルフパター練習台(ボールがこちら側に迫って来る)や、記事本文にも書いた森の風景、飛翔シーンにさらりと角度を説明するシーンを挿入するなど、随所に気の効いたリズムが心地よかったりする。


追記2*直前に黄金町で見た『ぼくら、20世紀の子供たち』(カネフスキー)は「映画は大雑把に見ては/語ってはならない」ことを改めて教えてくれた。泣いた。感謝。