『倫敦から来た男』(タル・ベーラ/2007)


同じくイメージフォーラムにてタル・ベーラの新作。海外におけるこの作家への絶大な評価とは裏腹に日本におけるタル・ベーラの評価はかなり微妙、どちらかというと積極的に違和感を表明する人の方が多いような。ただ『ヴェルクマイスター・ハーモニー』(2000)という作品は個人的にはなかなか面白くて、例えばファーストショットの大人数でクルクル回る「惑星系天体ダンス」の奇天烈さ(徐々に狂っていく)とか、続くセカンドショットの路上、主人公がどんどん遠くに影として映し出される人力撮影でここまで出来るのか!と驚いてしまう奇跡的なショットとか、唯物的に登場するクジラの存在とか。同時にタル・ベーラという作家に距離を感じてしまうのは、その完璧なまでに計算、配置された画面設計がフレーム内における偶発性を拒否し続けることで、ただ『ヴェルクマイスター・ハーモニー』の場合、それは人物の動きや奇異な固体と登場人物の衝突によって偶発性とは別種の面白さを導いていたように思う。『倫敦から来た男』は、それら「ギミック」は一切排除され、ある意味剥き出しのタル・ベーラ作品と呼べる映像(つまりウンザリするような長回し)だけで構成されている。


満ち潮から浮き上がったカメラ(撮影はフレッド・ケレメン。未見なのだけどタル・ベーラと同じく現代映画における伝説的な映画作家として評価が高い人物。東京国際で上映歴あり。本当かどうか分かりませんが自身の作品のDVD化を一切拒んでいるとか聞いたことがあります)が俯瞰する大きな船と隣接する線路・列車のセットは恐るべき美術。このセットの間でカメラはいつ果てるでもなく右往左往を繰り返す。緩慢な動きながら距離や配置が完璧に計算されたカメラ。ここに偶発性はない。ただ美術としての美しさだけが誇張される。面白いのはフレーム内の偶発性を拒否した地点においても人の背中の影や顔の皺には「揺らぎ」が生まれてしまうという点で、ここをどう評価するかでタル・ベーラへの評価は変わってくる気がする。または偶発性は周到に配備された人物の動きよりも技術=マシン(撮影)の側に生まれることだってあるかもしれない。『ヴェルク〜』のセカンドショットはそれを如実に表わしている。殺人シーン省略の是非はともかく、タル・ベーラ作品の微かな「揺らぎ」をどう評価するか。非常に困惑させられた。『ヴェルク〜』のようなギミックがないとキツイというのが正直なところ。