『アンナと過ごした4日間』(イエジー・スコリモフスキ/2008)


イメージフォーラムにて1年振りの再見。昨年の東京国際映画祭で見たときはスコリモ登壇という映画祭独特の緊張感も手伝ってか、とにかく圧倒された本作。まるで戦争が終わったことを知らされていない唯一の地区であるかのように、この灰色の空は鈍く、未だ戦時下の混沌とした状況であることを思わせる。アンナの家の前で不意にライトを照らされるレオンや、「トーチカ」という名の猫の存在、アンナの部屋を覗き見る窓こそがイコールでトーチカ(防御陣地)と結ばれるなど、仮想/仮装戦時下をメタファーにしたサスペンスという印象は前回と変わらないものの、マージナルなアイディアやサスペンスの切迫感の中に共存する可笑しみや、予告編でも唄われる切実な愛のテーマを、今回はより感じ入ることが出来た。窓枠=フレームという主題が浮き上がる。


アンナの部屋から主人公レオンまでの距離は3重のフレーム=壁に隔たれている。ひとつは自宅の窓枠、もうひとつはアンナの部屋の窓枠、最後に望遠鏡のフレーム。レオンがアンナを覗き見る時間が決まって夜だということを考えると、この夜を映画館の暗闇のメタファーと取ることは容易だ(アンナの部屋には白く薄いカーテンという幕さえある!)。レオンはフレーム=スクリーンを超え/破り、アンナの体に触れたいと願う。ペディキュアを塗ったり、猫と間違われて腕を抱きしめられるものの、レオンが寝ているアンナの体に明確な意思を持って触れることは一切ない。アンナというスクリーン上の存在はレオンの意思だけを拒む。指輪を嵌めることに失敗するのがよい例か。面白いのは物語の終盤、レオンが自宅にもうひとつの窓枠=フレームを作ることで、ここに対アンナへのカメラポジションの変更がある。この新たな窓枠が悲劇へと繋がったのは大変に興味深い。出所したレオンの家とアンナの部屋の前に大きな壁が立ち塞がるラストは、女性を/映画を見ることを永久に拒まれてしまった人間の悲痛さと重なる。


窓枠に燃える炎をバックにレオンは一人孤独にアコーディオンを演奏する。レオンがアンナの部屋で踊るダンスシーン(猫を抱きしめながら)はだからこそ美しい。レオンにとって人生にたった一度のスクリーンの中で「女優」と共演するダンス(ここでも「女優」は寝ているのだけれど)だったからだ。泣けた。