『Me and My Brother』(ロバート・フランク/1969)


ロバート・フランクの初長編映画『Me and My Brother』は統合失調症の主人公に関するドキュメンタリーという極めて際どい題材を、メタフィクション/ドキュメンタリーの複雑な構造で描いている。ロバート・フランクの処女短編『Pull My Daisy』を絶賛したジョナス・メカスは、本作におけるフィクションとドキュメンタリーの融合に一定の評価を与えつつ、この作品の編集を嫌悪する言葉を残している。ロバート・フランクは撮影された対象に「意味」を与えすぎている、というのがメカスの主な批判だ。この批判に対してロバート・フランク自身も本作の”オーバー・エディット”を認めている。なるほど、アレン・ギンズバーグと恋人ピーター・オルロフスキー(画像参照)が、主人公のジュリアス(ピーターの兄)と共に、楽器を演奏しながら荒野を歌い歩く(ケネディ肖像画を手に、クリシュナのことを歌う)本作には、この時代ならではのサイケデリックな趣向が良くも悪くも編集にまで及んでいる。冷戦真っ只中の時代にギンズバーグとオルロフスキー兄弟(ソ連系)が「クリシュナ」を歌いながらひたすら荒野を歩く映像は刺激的な表現だ。ところが現在この作品に接したとき、この映像さえ置き去りにしてしまうほどラディカルだと思えるのは、『Me and My Brother』という映画の構造そのものだろう。本作において統合失調症のジュリアス・オルロフスキーは、本人と別人によって「演じられる」。重要なのは、カメラの前に立つジュリアスが本人であろうと別人であろうと、「役」を演じているということだ。カメラがフレームに収めてしまった以上、対象が現実の身体から乖離していく。そのことを克明に暴いていくロバート・フランクの狙いは、オーバー・エディットという批判/反省を踏まえた上でも大成功していると言える。邪道な手段を選びつつ真実に迫る、というか。



『Me and My Brother』は「これ以上近寄るな」というネオンライトの文字をアップにする騒々しい夜のシーンから始まる。何度も出てくる試写室のシーン(若きクリストファー・ウォーケンが出演!)では、『Me and My Brother』の上映が行われ、スクリーンをフレームに捉えながら徐々にカメラが引いていくことで、ここが劇場だと分かる仕組みが繰り返される。また映写機とスクリーンの間にジュリアス(俳優の演じるジュリアス)が立って、ジュリアスの体全体をスクリーンとしてフィルムが投射されるシーンまで用意されている。別のシーンでジュリアスは窓を一枚隔てて撮影される。その窓には娼婦のようなモデルがベッドの上で奇妙な動きをしている様子が常に映りこんでいる。撮影カメラの前に窓や人という壁=スクリーンがあり、そのスクリーンには、内部(自画像)と外部が同時に投射される。つまりここでは、窓や壁、ときに人さえもが、真っ白なスクリーンということになる。これらのことはロバート・フランクの映画における窓や壁が、常にフレームという枠を意識させることと密接に結びついている。ジュリアス本人が撮影されたフィルムのネガを凝視するシーンは、撮影された自身という素材(自画像)と、生身の自身との関係を激しく揺さぶる。そしてここで揺さぶられるのはジュリアス本人ではなく、私たちの方だ。ジュリアスにはリアクションという「反射」が基本的に欠けているのだ。


ラストシーンにおいてジュリアス(本人)はシネマ・ヴェリテの手法でロバート・フランクの質問を受ける。「カメラの前で演じるのはどんな気分か?」。ジュリアスはたどたどしい言葉で「演じることは自身の考えを超えた何かだ」と答える。また、カメラに対する苛立ちを表明し、同時に真実を暴いてしまうものだと恐れを告白する。「真実は何処にある?」と尋ねるロバート・フランクに「自分の内側と外側だ」と答えるジュリアス。このインタビューは、カメラとジュリアスの間に窓という一枚の壁を隔てて撮影されている。ジュリアスは窓というキャンパスの中で確かな、そして脆すぎる、「肖像」となるだろう。残酷なことに、撮影されたフィルムというフィクション/ドキュメントの中で「ジュリアス」は内側にも外側にも存在する/しないことが暴かれてしまう。と同時に、被写体や被写体の残したリアクションが、たしかに存在し、たしかに存在しない、ということを、同じキャンパスに並べられる美しさがこの作品にはある。傑作。


追記*演じられた「ジュリアス」の乗った車を襲う暴動のシーンが鮮烈だ。