『プル・マイ・デイジー』(ロバート・フランク、アルフレッド・レスリー/1959)
ジム・ジャームッシュがフェイバリットに挙げる写真家ロバート・フランクの撮った処女作『プル・マイ・デイジー』(ジャームッシュは同じくロバート・フランクがローリング・ストーンズを追った『コックサッカー・ブルース』をフェイバリットに挙げている)は、ビートニクの神話的作品として、また実験映画の金字塔的作品として、知られている。いまなお後世に多大な影響を与え続ける写真集『アメリカ人』を出版したロバート・フランクが個人制作の映画へとジャンルを横断したのは、『アメリカ人』で成し遂げた自己のスタイルの再生産を禁じるためだった(『アメリカ人』→『バス・フォトグラフ』)のかもしれない。しかしながら、ロバート・フランクの写真における仕事と『プル・マイ・デイジー』や、80年代に撮ることになるロードムービー『キャンディ・マウンテン』(ビュル・オジエが出演している)の間には、『アメリカ人』と『バス・フォトグラフ』がそのスタイルの変化にも関わらず、「移動」という点で一致をみせるように、ロバート・フランクの主題は強固にフィルムに刻まれているように思える。
オールアフレコでジャック・ケルアックがナレーションのみならず、登場人物の台詞を一人で演じる『プル・マイ・デイジー』は、いってしまえばサイレント映画にジャック・ケルアックという特異な活動弁士+スウィングするグッドミュージックの生演奏が添えられた、極上に贅沢な映画だ。ケルアックがときに散弾銃のように飛ばす自由連想のような言葉(「ゴキブリ」と「聖人」!)や、登場人物(アレン・ギンズバーグも出演)のダンス、演奏、は記録されたものであるはずのフィルムが、フレームの外からの音声によって絶えず変異を強いられるようなドキュメンタリー性、ライブ感に溢れている。面白いのは、登場人物のタップダンスのような軽快なジェスチャーと、スウィング・ミュージックは、劇伴のように画面と密接する関係性というより、偶然に聞こえてしまった音楽、たとえば近所の家から漏れ聞こえてきた音楽のように、音楽それ自体に匿名性が与えられているような印象を受けるところだ。また、この匿名性は登場人物の関係性にも当て嵌まる。ギンズバーグという神話的で特別な被写体を撮っているにも関わらず、『プル・マイ・デイジー』は、ロバート・フランクのすべての写真がそうであるように、「被写体を特定しない」(スーザン・ソンタグ)。『プル・マイ・デイジー』は、名前を剥奪されたストリートを放浪する人々が、一つの部屋に集まって、酔っぱらって踊る、ただそれだけの映画であり、その小さな部屋の中に、「アメリカ」というドキュメントを滲ませることに成功している。つまりこの小さな部屋はストリートの縮図なのだ。『アメリカ人』でアメリカ各地を放浪したロバート・フランクが、逆に、放浪する人々の一箇所への集いをフレームに収めていることの興味深さ。「移動する人」の主体と客体の関係性にこそロバート・フランクの主題はあるのだろう。繰り返される人から人への、酩酊状態のように無時間なパンニング撮影は、彷徨いつつも、夢魔的になる一歩手前でドキュメントにとどまる。この30分にも満たない短編に収められた、様々な表情やアクションの記録の変異は、タップダンスとスウィングの軽快さの中で、ケルアックの「Bang!」というナレーションのとおり、見た者を撃ち抜く。珠玉の作品。
追記*チャップリンへの言及は、本作のジェスチャー的な登場人物のアクションを考えると面白い。もっとも、ケルアックは「チャップリン!ゴキブリ!」と言葉を繋いでいくのですが。
追記2*『プル・マイ・デイジー』は女が窓を開けるシーンから始まる。「窓」というキーワード。
追記3*『プル・マイ・デイジー』と並べられるのは『アメリカの影』(ジョン・カサヴェテス)だと思う。「1959年」という年(フランスでは『勝手にしやがれ』『大人は判ってくれない』だ)のパラダイムシフトに思いを馳せる。