『コックサッカー・ブルース』(ロバート・フランク/1972)


ローリング・ストーンズの破天荒なツアー&バックステージを追った『コックサッカー・ブルース』は、たとえばロバート・フランクが初めて映画のカメラマンを務めた『チャパクア』(コンラッド・ルークス)のようなヌーヴェルヴァーグとドラッグカルチャーに影響を受けた画作りとは遠く、かといって自身の初長編でありカメラマンも兼任する『ミー・アンド・マイ・ブラザー』のような、ドキュメンタリー/フィクションを混在させる被写体との共犯関係とも趣きが異なっている。まず第一にロバート・フランクは『コックサッカー・ブルース』の撮影において、複数のカメラを用意している。カメラマンが複数存在するこの作品ではロバート・フランクのみならず、ミック・ジャガーの撮った素材や、はてまた、どこの誰だか分からない当時の関係者の撮った素材まで混在している(はず)。ここにはカメラマンの審美性があらかじめ破棄されているということだ。『コックサッカー・ブルース』には当時のストーンズのアッパーとダウナーの記録が極端な形で記録されている。グルーピーたちとのセックスやドラッグ摂取の様子が、その一切を隠すことなく、赤裸々に収められている(『コックサッカー・ブルース』はオフィシャルには公開が禁止されている)。ここで気になるのは、ロバート・フランクが被写体=ストーンズと、どういう関係を結んだか、ということで、それはたとえばこの作品を愛するペドロ・コスタが評するところの「悲しい映画」という言葉と繋がっているように思える。



スティーヴィー・ワンダーと共に「アップタイト」を演奏するシーンに代表されるストーンズの白熱したステージ(録音がブート並なのが残念)や、バックステージで楽器が演奏されている間だけに宿るアッパーな空気。ツアーの移動中にグルーピーの女の子の服を脱がしてストーンズのメンバーとクルーが狂騒的に打楽器を鳴らして女の子を囲む(もちろん両者同意の下ですよ)享楽の宴のようなシーンや、バックステージで即興的に民俗音楽のような演奏が繰り広げられるシーン。楽器が鳴っている間だけの躁病的な楽天性と対称的に、バックステージのシーンでは、メンバーがドラッグでぶっ倒れていたり、グルーピーたちとのセックスのあとだったり、停滞するひたすらダウナーな時間が流れる。この作品においてミック・ジャガーだけが躁病的でありつつも、映画の画面における一番”まとも”な人間に見えるところが面白い。ペドロ・コスタが「亡霊のようだ」と評するこのアッパーなミック・ジャガーと、ダウナーなほかのメンバーの存在こそ、このフィルムの撮影者と被写体との関係を暴いている。そのアクションにおいてアッパーとダウナーの二極しかない被写体にとって、撮影者という「他者」など「勝手にしやがれ」といういうことなのだろう。セックスとドラッグがまるでフィクションであるかのようにカメラの前で展開されるとき、撮影者と被写体とフィルムは完全に現実感を失っているように思う。現実感のない人たちによる現実感のないドキュメンタリーは、アッパーとダウナーの差を失う。そのことは逆に撮影者と被写体の関係をとことん唯物的にしてしまう。動物だってカメラを気にするのに、彼らときたら完全に「知らんがな」といった態度なのだ。キース・リチャーズがホテルの窓からテレビを投げる「演舞」も含め。『コックサッカー・ブルース』の撮影者と被写体における「無視」の関係は、このイカレタ状況でなければ撮れなかった唯物的な記録なのだろう。


追記*この作品で一番美しいと思ったのはステージに向かうメンバーを背後から追った通路のシーン(ノイズがいい)と、ラストシーンのステージに向って気合いを入れるやや正面からのショット。現実音と録音した音を入れ替えてバックステージのメンバーの着替えを無声のように展開させるシーン。